見出し画像

「抗体詩護符賽」ヴィトゲンシュタインと括弧的感覚

ところでここ数ヶ月、数学とプログラミングの勉強を進めている。なぜそうなっているのかを振り返ってみよう。去年の秋頃、デレク・ジャーマンの「ウィトゲンシュタイン」を見直していて、それから数週間ウィトゲンシュタインの関連書をいろいろと読んでいた。高校時代にウィトゲンシュタインと出会ってから彼は私の中での最重要人物である。なぜ彼に惹かれるのかを説明するにはまだ言葉が足りないが、彼がゲイであること、そして治癒としての哲学を探求していたことが大きなキーワードだろう。私は彼のそういった洗練されたサイケデリックな感性に共鳴している。

デレク・ジャーマンの映画を見るちょっと前、スーザン・ソンタグの「キャンプ」をリサーチしていた。それにもキッカケがある。それは「括弧の意味論」という本を読んだことだ。ある日書店で「見知らぬものと出会う: ファースト・コンタクトの相互行為論 」という本を見つけた。SFとコミュニケーション−情報学に興味がある私は早速その本を家に持って帰り、読んだ。アルゴリズム複雑性の話や規則の話、宇宙人の話など楽しい話が多いが書くと長くなるので端折る。久々の楽しい読書体験であったが、その中でも著者の前著「括弧の意味論」の議論に興味を持った。なぜなら私の書く文章はいい意味でも悪い意味でも過剰な括弧に特徴づけられていると自覚しているし(拙著「kenbo」のクライマックスは「埋め込み(embeding)」された少年の頭の中の声で終わっている。これは私の幼児期の実体験である。)その感覚は私の日常世界のあらゆることを括弧的に彩っているのを知っているからだ。それゆえ私はそこに執着している。行く先々で、括弧的な感覚を、感じている。
※括弧の意味論で紹介されている埋め込み(embeding)の例(「「「私がそう思っている」とあなたは信じる」などということは私は認めない」…という具合にどんどんと入れ子的に複雑になっていく。)

そして「括弧の意味論」を読み進めた。去年読んだ本の中でもダントツに面白かった。著者の木村大治も括弧のことがずっと気になっていたようだ。この本では括弧という現象について様々な考察がなされているが、本の半ばに登場する永井均の「超越論的なんちゃってビリティ」という概念に話が及んだ時、私がある時期不安を伴って感じていた心理状況はまさにすべてを括弧付きで見てしまうという状態であったことが明らかにされた。引用しよう。

超越論的冗談とは、いかなる「まじめな」言語行為にも「なーんちゃって」という発言による冗談化が後続しうるのでなければならない。という意味である。

木村はこの永井均の言葉を引用したあと冗談の持つ括弧的な性格について「延々と真面目な話をした最後に、「というのは冗談だが」という形でその話全体をひっくり返してしまえる、ということなのである。と説明している。20代前半、私にはこの超越論的冗談性に振り回されていた時期があった。大げさな例えをすると、ある時、私は他人がなにかを私に話した時その末尾に存在する「というのは冗談だが」を聞いてしまい、冗談として受け止めると今度は真面目な話だと怒られてしまう。しかしそれも怒っているふりなのかもしれないという可能性から逃れることができず、結果私は真面目に受け止められなかった。という具合にどこまでいっても真面目か冗談かが定まらない不安定な状況にフラストレーションを感じていた。しかしそれだけならよくある勘ぐり深き生活であるが、自分が言っていることが冗談なのか本気なのかがわからなくなってしまうと混乱は更に広まる。自分がなにか言った後「というのは冗談だが」と言ってもいいし、言わなくてもいい。自分にとって「今の発言はそれが冗談なのか真面目なのかわからないし、どちらでもいい」という言葉しか吐き出すことができない。しかし本当はどちらでもいいと思っていないから不安になっていたのだ。この状態はとても不安定な心理状況であったがそれをどこかで楽しんでもいた。しかし現実に問題が起こると楽しんでもいられなくなったのだ。ところでこの話は人工知能のフレーム問題に関連した話題であるように感じる。人間はそもそもフレーム問題を解いてはいないのではないかという疑問である。超越論的冗談性のある全ての言語行為に対して真の意味や相手の本当の意図などをシュミレートしていると時間がいくらあっても足りないしそれには到達し得ない。そんなシミュレートなしに、事が進んでいる「かのようにみえる」「会話が成立している」世界が「上手くいっている」時に我々が生きている世界だ。

陰謀論を信じ込む人間や、正しさを追求する人間はこういった不安から逃れようと、容易にどちらかに決着をつけてしまう習性から生まれるのだろう。今は全くそういった不安はなくなったがそれでも「いかなる真面目な言語行為にも冗談化の可能性がある」ことは変わらない。ただその可能性の世界にハメられることが少なくなっただけである。遊び方を覚えたといってもいいだろう。パラノイアックな状態から治ったといってもいいだろう。しかし私の内部ではこうした括弧的な現象は美的感覚として存在し続け、〈キャンプ〉的な感性としてドラッグクイーンの文化や、ディスコーディアニズム、ハッカー文化への興味へと接続している。もしかしたら「kenbo/S/U88/55」と「夢の書」という2つの小説を書いた経験は、括弧的な不安を「捉え」それを〈キャンプ的〉な美学へと昇華していく過程だったのかもしれない。

漠然と持っていた自分の美的感覚の一部に〈キャンプ〉という言葉で焦点をあててくれたのはスーザン・ソンタグの「〈キャンプ〉についてのノート」であった。パラパラ読んでみて、難しくてよくわからなかったがこのノートの存在を教えてくれた彼女との会話を進めるうちにだんだんとそれが私の「括弧趣味」そして「ゲイ的感性」への共振と近いものであることがわかってきた。〈キャンプ〉とはもともとドラァグクイーンが使っていた用語なのだそうだ。スーザン・ソンタグはキャンプのキーとなる要素として「人工」「失敗した真面目さ」「通俗性」「愛情」「二重の意味」「ダンディズム」などが挙げられている。高校時代に大量のカルト映画を見ていた私はもちろん〈キャンプ〉に多大なる恩恵を受けている。〈キャンプ〉という言葉は知らねど昔から〈キャンプ〉的な映画や音楽、ノリが好きだった。そしてそういった作品を生み出している製作者は大体ゲイであった。ジョン・ウォーターズやデレク・ジャーマン、NYロフトシーンやフランシス・ベーコン、全てゲイである。そしてウィトゲンシュタインもゲイであったことを思い出しデレク・ジャーマン「ウィトゲンシュタイン」を再び観ることになった。ウィトゲンシュタインの感性や人柄がそういった括弧的なものや〈キャンプ〉的なものを感受するものであることは疑いようがない。「ウンコな議論」という本の中でヴィトゲンシュタインのこのようなエピソードが紹介されてれている。

扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車に引かれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」

たまにいる真面目で言葉をリテラルに受け取る面倒なやつ。そういった見方もできるだろう。しかし私にとってはこのエピソードに付随する感覚は〈キャンプ〉だ。

そういうわけでヴィトゲンシュタインから数学へと自然な流れで興味が移ってきた。ルーディーラッカーを読んだ時や「π」という映画を観たときの気持ちを思い出す。数学への興味と〈キャンプ〉への興味はどこか似ている。それはフランス映画で描かれるロマンチックな逃避行よりも熱く、くまのプーさんより柔かい。氷のように緻密で、酸のように目まぐるしい。「ヨーロッパ」より「アメリカ」が好きな理由であり、近代文学より昨夜の夢の方が好きな理由がそこにある。

区切ること、規則というもの、計算するということ、階層があること。こういうものにセクシーさを感じる感性が私の追求しているものだ。

括弧からキャンプへ、キャンプからゲイへ、ゲイからウィトゲンシュタインへ、ウィトゲンシュタインから数学へ、数学からプログラミングへ、といった具合で自分の中の「今これがアツい」が進んできた。そしてプログラミングからハードウェアハック、ハードウェアハックからバイオハック、バイオハックからドラッグ、ドラッグからゲイ、括弧、数学、音楽、オートポイエーシス。こうしたマジカルバナナ的連想がリニアな時間軸ではない形で、常に同時に入れ替わり立ち替わり現れ循環しつつ毎日の生活を彩っている。実にキャンピーだ。とにかく最近はこれまで避けていた分野、特に数学やコンピューティングの世界が開けたので、勉強を楽しんでいる。もう少し進んだらまた何か書きたいと思っている。括弧的なものについて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?