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第一報「をとめ通信」

昭和20年08月06日。
ラジオで報じられたという…その放送。

「NHKラジオ広島放送局から大阪放送局に、援助を求める内容の放送がされたのを受信した」という証言が日本各地に残っており。それは、原子爆弾投下後ほどなくして聞こえてくる、チカラない女声での放送。

『大阪さん、大阪さん、こちらは広島放送局でございます。広島は壊滅いたしまして、電波が足りません。大阪さん、大阪さん、どうか電波を送ってください…』

『幻の声 NHK広島8月6日』白井久夫:著

というもので。

繰り返しその放送は続けられ。30分ほどで途切れ、以降は放送が聞こえなくなったといわれています。

当日、NHKの広島市内通信設備は壊滅。ところが郊外に在った原放送所は鉄塔設備も含め比較的無事であったため、そこからの放送であったのではないかと推察されています。

この一件。
経緯をつぶさに検証・調査したのが先掲、NHKディレクター白井久夫氏による『幻の声 NHK広島8月6日』。

新型爆弾投下直後、力なくも悲痛な女声による放送への噂・伝聞。著者は多方面に亘って放送の真偽について調べて行くに従い。確証を見出すことはできませんでした。

その後の取材や元職員らの証言により、実際に大阪中央放送局などの近隣の放送局に救援を求めていたことが明らかとなった。結局、原放送所への避難後も大阪中央放送局と交信することはできなかったが、岡山放送局と交信が取れ、同局から原爆投下の第一報が東京へ伝えられた。

from Wikipedia

ここで、『幻の声』著作者。白井氏の名前も出てきます。

放送局間での交信を一般聴取可能な放送上で行うというのは、妥当な方法では勿論なく。あくまで「誰が広島の惨状を、一刻も早く放送局間で(電信•電話等の手段で)知らせる努力をしたのか」という点に、主題は転んで行きます。

大阪中央放送局への呼びかけを行なった女性アナウンサーが誰だったのかについては、白井久夫ディレクターをはじめとする調査員が詳細な調査を行なったが、特定することはできなかった。状況から考えると原爆投下直前の放送を担当した井沢幸代アナウンサーが声の主として有力視されているが、本人は訊き取り調査の際に否定している

《 同上 》

結局。
本放送を通しての呼びかけは、言わば「都市伝説的」なものであった、と結論づけておられます。

別して、ラジオ放送ではなく軍関係者に宛てての第一声。こちらは発信当事者の手記や講演記録にも残されております。

旧日本軍大本営跡

爆心地からさして離れてない、旧大本営跡に隣接する旧日本軍中国軍管区司令部。その半地下の施設から、当時比治山高女(現・比治山女子中・高)より動員されていた、『岡ヨシエ』さんが九州と福山の部隊に向けて被爆の惨状を伝えた通信が、原子爆弾投下の第一報でした。

被爆後の防空作戦室(1945年10月・米軍撮影)

私は思わず濠の土手の上にかけ上った。
広島の街は・・・。その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の街と化した広島であった。

赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時初めて、「大変だ」と血のさがる思いをしたのである。

下の方で兵隊さんが 「新型爆弾にやられたぞ」と、どなっているのが聞こえる。

私は元の部屋にかけ込んだ。

「そうだ、まだ通話の出来る所へ早く連絡を」そう思いながら、電話機を持った。九州と連絡がとれた。そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく

「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました」

「なに新型爆弾!師団の中だけですか」

「いいえ、広島が全滅に近い状態です」

「それは本当か」

大きくわれる様にひびく声。
その内に火の手が上がったのであろうか。壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。

「もしもし。火の手がまわり出しました。私はここを出ます」

「どうか、がんばって下さいよ」

と、兵隊さんの声を後に受話機をおく。(後略)

比治山女子卒業生・被爆体験記『炎のなかに』より抜粋

その後、彼女は緊急避難場所として指定された陸軍幼年学校に赴き、負傷者の救護や炊事場にて補給食の調理を手伝ったりした、と併せて体験記で語っておられます。

2017年迄は地下司令室内部拝観もできましたが、現在は閉鎖中との由。老朽化も激しく被爆建築物としての保護は難しいとのことから内部に関しては取り壊しも検討中。

「こうあって欲しい」という思いや、被爆の悲惨さを希求する平和への思いと絡めて冒頭の「大阪さん、大阪さん、どうか電波を送って下さい」に結びついたのだと結論する、白井氏の新書をなんとも云えない気持ちで読みふけったのを思い出します。

さて…。

海の向こう、遙か離れた場所で沢山の尊い命が失われております。兵士も民間人も見境の無い殺戮と暴虐にさらされております。抵抗を続ければ核による攻撃も辞さない旨のコメントを、為政者が堂々と発していたりもする…体たらく。

ヒトは愚かな生き物で、なんでも忘れてしまいます。

だから、明るい未来を夢見て、手を携えお互いの苦しみを乗り越えることもできるのですが。後先も考えず、「数多の命を犠牲にしないと思いが達せられない」と、当たり前に考えてもしまうんですね。

軍部への広島被爆第一報の電信を行った「岡ヨシエ」さんは2017年05月19日に御帰幽。折々被爆の講話活動を続けてこられた岡さんも、もうおられません。

お亡くなりになった後で、この侵攻が実効されたことの是非は果たしてどうだろう…。愚か者の現代人でございます、ごめんなさい岡さん。

広島の動員学徒慰霊像でございます。

ゼレンスキーの旦那やプーチン先生。

主義や体制の護持は国是とは云え、個人的には、段々と双方ともの有様を好ましい気持ちでは受け止められない心持ちでございます。

「とっとと止めろ、ばかもの」的なね。

一日も早い侵攻終息の日が参ります様に。(合掌)