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芸州地誌2篇
室町以降の地元芸州(安芸広島)を鑑みるに、1600年代半ば。江戸期文治政治が落ち着いてから、ようやく…地誌に関しての調査を行う営みが始まります。
戦争やってる時に、この地蔵にはコレコレの謂われ。あの寺社にはナニナニの経緯。…などとやってる場合でもなかったろうし。そもそも広島の中心は守護領国体制の頃には毛利氏が治める県央の吉田地域が主体。
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三角州といわれる広島の現市街地は、到底。今の様態とくらべて地盤も軟弱で、「城建てて治世の中心地にしよう」なんぞという発想は湧くべくもなかったろう、という有り様でした。(毛利元就時代)
治めるべき範囲、国の(藩の)場所がどこからどこまでなのかは、やっぱり守護領国体制が幕藩体制にならねば定まりません。
で、徳川治世が落ち着いて後。各地区の広さ・文物・社寺縁起と地元の特質について記したのが『地誌』ということです。まぁ…乱暴にいえば、江戸版広島限定の「風土記」ということですね。
かくて1663年寛文二年に芸州淺野藩の『芸備国郡志』が編纂されました。
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書いた方、黒川道祐(くろかわ・どうゆう)なる医学者。儒学は林羅山・林鵞峰父子から学んだという…方で、広島藩藩医。昔も今も医者さまはオールマイティ、学識が求められたんですな。要請を受けて藩内地誌編纂に着手して『芸備国郡志』を著す…とあります。
この寛文二年という年は近江・若佐を中心とした大地震が起きた年。(寛文京都地震)石清水八幡宮や古社寺への影響も相当に大きかったということで、復興に多大な出費があったと想定されます。俄然、歴史や記録を残すことの必要性が喚起されたことと関係ある様な、ない様な。(どっちやねん)
黒川氏はその後1673年(延宝元年)に藩医を辞して京都に赴き、著述に専念。医師としてより、あちこちを調べて著作にパワーを費やす事の方を選ぶに至った経緯には、藩内取扱などなど窮屈な事情が見え隠れしてきます。
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さておき。
それから160年余を経て、文政8年(1825年)。次の地誌『芸藩通志』が編纂されました。編者は「頼 杏坪」「加藤棕盧(株鷹)」「頼 舜燾」「黒川方桝」「津村聖山」「吉田吉甫」「正岡元翼」とあります。
ここで着目するのは『芸藩通志』主筆・元締めに記される「頼 杏坪」と三番目の「頼 舜燾」さん。
「頼 杏坪」さんは先に挙げた「頼 春水」さんの弟さん。(春水・長男/杏坪・三男)次男の「頼 春風」さんが竹原の頼家家督を相続、医師として境涯を全う致します。
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今一人「頼 舜燾」とあるのは、主筆「頼 杏坪」さんの長男「頼 采真(さいしん)」さんの揮毫・作歌における雅号であった様です。親子で『芸藩通志』編纂に携わっておられたことになります。
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春水氏が大坂より安芸淺野藩の藩儒として任官後(1781年)、弟である杏坪氏もまた藩儒に推戴されるのが1785年・天明五年。春水氏任官後、五年後の就任でした。
兄弟揃って藩に採用されるのは嚆矢である「頼 春水」氏の鋭敏・英邁であったからに他ならんのでしょうね。元は紺屋の小せがれなれど…学を積めば学者となり。学者として名をはせれば士分取立、お侍さんになってしまうというシンデレラストーリー。
でも。
杏坪氏藩儒として書を読み講ずるのみがお仕事ではなく。『芸藩通志』以降、50代となって県北三次市の代官・地方執政官としての役回りも引き受けていること。
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身分制度を越える為には並々ならぬ才能が要求される時代のことでございます。それでも、一芸に秀でることで、世間の常識を覆すこともなかったわけではないことが、分かります。
スペシャリストは重用されるんですな、いつの時代も。