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【紀行】鰐淵寺(出雲市)

推古二年(594年)智春上人が推古天皇の眼疾を浮浪滝に祈って平癒されたので、その報賽として建立された勅願寺である。
霊鷲山の艮(うしとら・北東方)地が欠けて浪に浮かんで流されてきた土地で浮浪山と称す。上人密法を修し給う折、誤って碗の仏器を滝壺に落とされたとき、鰐魚が鰓にかけ浮かび上がったことにより寺号を生ず。

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駐車場から仁王門を経て拝観料受付までゆっくりあるいて10分足らず。

仁王門までの途中。八百屋お七に恋われた吉三郎、出家の後に、お七の骨を携え。お七の起こした火事でお亡くなりの皆さんにあてて、廻国回向の旅にでるんです。そして…鰐淵寺域にて吉三郎、客死ご逝去。

仁王門手前の道沿いに、その二人を葬った墓所なんぞがあります。(墓を写真に撮る趣味はございません…ごめんなさい)吉三郎とお七の墓参がしてみたいという方は是非、ご当地までお運び下さいまし。

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出雲市内には出雲大社・日御碕神社と…著名な神社があって。いずれも交通の便にめぐまれていることからか、連休によらず沢山の参拝者があります。

他方、鰐淵寺に関しては。

島根県日本海側によくある漁村・漁港の奥に位置していることからも御参拝の方は地元島根の方か、よほど歴史に詳しい好事家。あ、あと。物好きなカメラ趣味の中年男もですかね…。皆さんお立ち寄りです。

つまり、参詣・観覧のヒトが少ないわけですよ。

で。拝観料・入山料?大人お一人500円也が入口で徴収されますので、あしからず、ご了承下さいまし。

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階段は108段だそうです。(四苦と八苦で36+72=108ですな)

比叡山に天台宗が開かれ、慈覚大師の勧めを受け日本で最初の末寺となる。また、早くより出雲大社との関係を密にし別当寺ともなった。

神前読経を大社拝殿(本殿御門内でも)で、かなり早くから行っていたと記録にもある事から。浮浪山鰐淵寺より大社町遥堪に抜ける山道を通り、数多の僧侶が出雲大社との往還を果たしていた…。と。

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神社側の動きとしては。寛文造替の折、境内での習合色を一掃する上で。境内諸堂宇の移遷・解体が進められました。

場所が場所だけに立派な堂宇もあり。

出雲大社境内三重塔に関しては、出雲國より丹波国名草妙見山への移設も行われました。で、妙見山からは寺域の檜大木がお返しに送られたそうです。

直接、鰐淵寺にあったものが丹波に行ったわけではないんですがね。

現在、出雲大社に鰐淵寺支配の痕跡というか残った建物は。北氏社北側の御文庫(校倉造り)のみと聞きます。

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根本堂脇手には釈迦堂(上側)があり、釈迦堂奥には銅鐘がお堂の中に下げられております。

武蔵坊弁慶の出身地はご当地平田。19歳より22歳までの三年間を鰐淵寺で修行し。以後、本山である比叡山に赴きます…が。僧籍に入る迄は、名うてのオラオラさんだったのでしょう。

伯耆にある大山寺から釣り鐘を鰐淵寺まで持帰った、という逸話もございます。

《銅鐘》高さ113.1cm・口径63.2cm
寿永二年(1188年)在銘の銅鐘。
もと鳥取県倉吉市桜大日寺上陀の鐘。当山で修行した武蔵坊弁慶が一夜のうちに伯耆大山寺から持ち帰ったとの伝説は名高い。

この鐘が必ずしも「ソレです」とは書いてないので、これはこれ。それはそれ、というお話しなんでしょうな。

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横から見上げたところ…屋根は檜皮葺き。平成年間の造替修造だったのでしょう。参道途中のご不浄脇にある手水からは苔むす内側から別の息吹。

ほんと、連休間にもかかわらず来参者は少なかったです。拝観料も止むなし…と云いたいところですけど。近隣寺院で拝観料を取るところはそうそうないんですがね。

なまじ、近所に大きな寺社があると…そっちに流れちゃうのかしらん。

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境内のもみじ「いろはもみじ」と云うそうで。
11月上中旬あたりから「もみじまつり」もやっております。(^^)

まだ、青紅葉でございました。(おそまつサマ)