禅ねずみ

禅が好きなねずみ。お茶でも一杯飲んで行って下さい。

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仏教、禅とは何かのマッピング

禅と言葉禅とは要するに、言葉を問題にしていると言える。 私たちは言葉でもってこの世界を認識している。 そのことが苦の原因になっているので、まずこの言葉の問題や限界を認識することが大切だ、というのが大まかな見取り図になる。 しかし言葉を問題にするといっても、結局そのためにも言葉を使って考えるしかない。だからやっぱり無理がある。言葉の限界を打ち破ろうとするのに言葉を使う、それそのものに限界があるわけで、こうなるともうどこにも抜けられない。 それをどうにかしようとして、禅は

    • 般若心経の検討③

      観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄 観自在菩薩が、般若波羅蜜多の修行をしていた時に、五蘊は全て空だと悟って一切の苦を取り除いた。 舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色 舎利子よ、色と空は異ならない。空と色は異ならない。色はすなわち空であり空はすなわち色である。 受想行識亦復如是 受想行識もまた同じである。 舎利子是諸法空相 舎利子よ、この世は全て空なのだ。 不生不滅不垢不浄不増不減 何も生まれることも消えることもない。汚れることも清らかであ

      • 般若心経の検討②

        前回の最後と同じ箇所から。 菩提薩埵(ぼーだいさったー)依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみったーこー)心無罣礙(しんむーけいげー) 菩薩は般若波羅蜜多をよりどころとするので、心にさまたげがない、心を縛るものがない。 無罣礙(むーけいげー)故(こー)無有恐怖(むーうーくーふー) さまたげがないから、恐れがない 遠離一切(おんりーいっさい)顛倒夢想(てんどうむーそう) あらゆる顚倒した夢想から離れている。 転倒した夢想というのは、禅では莫妄想(まくもうぞう)

        • 般若心経の検討①

          観自在菩薩(かんじーざいぼーさつ)行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじ) 観自在菩薩という菩薩が、般若波羅蜜多の修行をしていた時に、という意味。般若波羅蜜多は「知恵の完成」という意味を持っている。要するに、観自在菩薩が修行をしていたときに、こんなことを悟った、ということで始まっている。 照見五蘊皆空(しょーけんごーおんかいくう)度一切苦厄(どーいっさいくーやく) 照見、つまり分かった、悟ったということ。何が分かったかというと、五蘊(ごおん)が皆全て

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        仏教、禅とは何かのマッピング

          書いているうちに愛語

          文章を書くことには確かに快感があります。これは何なんだろうかと不思議に思います。 ああ疲れたなぁと思っても、一人パタパタとキーボードを叩いていると不思議とそれなりに文章が連なっていって、適当なことをつらつら書いていると確かに何か心が軽くなったような感じがするのです。 別に何か大層なことが書けたわけでもないのに。それでも何か心地よい感じがする。 どこかでは自分なりに何かをうまく言葉にできた、捉えられたという感覚がしているのでしょうか。それが楽しいのでしょうか。 言葉とい

          書いているうちに愛語

          空観による自己の根っこには何があるんだろう

          仏教や禅についていろいろ書いて言語化しているんだけれど、空とかももっとシンプルにしたいなぁという思いがあります。 でもそれよりも、空から自分に至る回路というのをもう少し整理してシンプリファイしたいなぁというのが私の常々思っていることです。 もともと空というのは言語化できないものを言語化しているものなので、それを言葉で理解することにそもそも無理があるというか、アクロバティックなことをし続けなければならないわけで、そこに面白さがある。 でもそこは自分なりには何とか捉えられて

          空観による自己の根っこには何があるんだろう

          書くことによるシンプル化

          自分にとって禅とかについて書いていくことは、言い換えていくことに近いものがあります。 禅とか仏教は言い換えていくことを大切にします。絶対的なものはなく、一切は空だ、と言っても、「一切は空だ」と言い切ってしまえばもうそれは絶対的なものがあると言っていることと同義だからです。だから一切は空なんだけど、一切は空だとは言えない。言ってはいけない。こういう無限後退みたいなところは抜き難く仏教にはあります。 だから常に断定を避けて言い換え続ける。動き続ける。 だから私もそれに勇気づ

          書くことによるシンプル化

          Laughterの歌詞

          Official髭男dandismさんの『Laughter』を聞いていたら、こんな歌詞があった。 人格者ではなく 成功者でもなく いつでも今を誇れる人で在りたい とてもいいなと思った。 本当にこんな風にいられたらな。

          Laughterの歌詞

          空っぽの文章を書く

          疲れたなぁ、と思ったときにはこうしてキーボードを叩いて文章を書きます。 大して何かが出てくるわけではないけれど、それでも何かしらこうして言葉を書く。たぶん自分をもっと空っぽにするためだろう。とにかく出てくるものを目の前にこうして並べていくと、自分がより透明になっていくような感じがある。がらんとした感じ。 ああもう疲れたなぁと思うときは、心が動かないときだという感じがする。何を見ても何を聞いてもどこかつまらない。心が動かないからだ。 でもこうして特に内容がなくても何かしら

          空っぽの文章を書く

          良寛さんは感謝した

          自分がイライラしたり怒ったりしたとき、中村元先生ともう1つ思い出すことがあって、良寛さんのエピソードです。 良寛さんにはこんな逸話があります。 あるところに村中から嫌われている意地の悪い男がいて、良寛さんがその村を通りかかりました。そして良寛さんはその男の船に乗って二人で海へ出るのですが、この男は良寛さんをわざと海に突き落とすのです。 良寛さんは溺れそうになって助けを求めました。さすがに可愛そうなので、その男は最後には良寛さんを船に上げました。 すると良寛さんは、「あ

          良寛さんは感謝した

          中村元先生は怒らなかった

          仏教は「怒り」を戒めます。 でも、怒らないことは、もちろん難しい。 仏教を学んでいる人でも、すぐ怒ったりする例は何ら珍しくありません。でも、人間ってそんなものですよね。私などはついそう思っちゃう。 私もすぐつまらないことでイライラしたり怒ったりして、それで後から、いけないなぁと思う。 そういう時にいつも思い出す逸話があって、中村元先生のエピソードです。Wikipediaに載っているものなので引用します。 中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近に

          中村元先生は怒らなかった

          糖分摂取で心を落ち着けることについて

          自分の場合だけれども、イライラ度や感情のコントロール度合は、頭にどれだけ糖分がいっているかに大きく依る。 これはもちろんご飯を食べるということでもあるんだけど、それと同じかそれにも増して、単純にジュースやアイスなんかで糖分をとるということも大きく影響してくる。 頭に糖分を入れるとイライラが落ち着く。 これは良いことなのか悪いことなのか分からない。たぶんあまり良いことではないような気もするけれど、事実としてそうなのだから仕方がない。 頭に糖分を入れているときは、まわりで

          糖分摂取で心を落ち着けることについて

          苦しみ=痛み×抵抗

          笑い飯の哲夫さんの「サタデーナイト仏教」というラジオ番組がありまして(FM大阪、毎週土曜日)、これがネットでも聴けます。「サタデーナイト仏教」のウェブサイトにいくと無料で聴けます。 今月は藤田一照さんがゲストでして、8月8日の回でとても良い〜ことをおっしゃっていました。仏教の方程式。 苦しみ=痛み×抵抗 幸せ=快楽÷執着 だと言うんですね。すごいことをおっしゃるなぁと思いました。本当にその通りです。 詳しくは藤田住職のお話を聞いていただく方がいいのですが、藤田さんは

          苦しみ=痛み×抵抗

          御者になる

          こちらのエントリーを拝読しました。 備忘録のために早島御住職が引かれているダンマパダの言葉を再掲。 『御者は動き出した馬車を制御する。 その様に、生じた感情を制御する者、その者を私は「智者」と呼ぶ。』(Dhp.222) 怒りというのは我執の最たるものだというのはよくよく分かっているのですが、いつも涼しい顔で平静には過ごすとなると、私などはなかなかできない。 そういうわけで怒りをどうするかというのは大きな問題ですので、忘れてしまわないように自分のとこにも再掲させていただ

          御者になる

          求めずに求める

          求めないあり方について考えている。 でも仏教は完全に求めないことだけを肯定しているのかというと、そうでもなくて、おそらく「全く求めないでいながら何かを求めること」、あるいは「求めない中でも行動をすること」を問うている。 本当に全く何も求めなかったら、これは行動ができない。生存することも求めない、できないことになる。仏教は何も行動しないことや、死ぬことを求めているわけではない。 求めない。それでいて行動をする。行動を取捨選択する。無取捨の中の取捨。こういう矛盾したことを求

          求めずに求める

          求めないあり方

          前のエントリーを書いて思ったのだけれど、「無功徳」ということはきっと「求めない」ことと繋がっている。 仏教は要するに「求めない」ことを目指している。 「求めない」ことを求めるので話がややこしくなって、我々凡夫はいろいろと右往左往するわけなのだけれど、とにかく、仏教は欲を少なくすることを目指している。 釈尊も、渇愛といって誰かを愛することさえも否定している。徹底している。 目的を設定すること、功徳を追うことは「求める」ことに縛られたあり方だから戒められるのだろう。それは

          求めないあり方