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ラクガクナ - 2024/01/16

漫画を描こうと考えている。
そう思って作ったミスキーのアカウントは一度きりしか動かしていないのだが。

アイデアは無数にある訳じゃないし、絵もそこまで上手くはないのだけれど、描いたり考えたりするのはやはり楽しい。
つたないので、自分の頭の中をそのまま紙に落とし込めるような表現力・技術力はないのだけれど、いつかは上手くなるだろう。
そういった事は明日以降の私に任せるとする。

「ピースは国によって意味が違うので、
気を付けたほうがよいぜ!!」

日記のために、何か描こうと思ったけど、「人間にピースさせただけの絵」が完成した。
絵だけじゃなんだか寂しいので、文字を入れる。
ギリシャとかだと、ピースは侮辱のハンドサインらしかったな。
書き足してみようか。

うん。どうだろう。
すこしだけ良くなったんじゃないだろうか。
いや微妙か?
もうどっちでもいいな。
イイ笑顔だし。


落書きをしていると、子供の頃を思い出す。
小学生の頃、私は「絵がちょっと上手くて、インターネットがちょっと詳しくて、運動がめちゃくちゃ苦手なやつ」だった。
そういう奴がクラスに1人はいたはずだ。
見栄っ張りな気持ちから、片目だけしか描かない奴。
そいつが私だ。

自由帳にポケモンを模写して見せびらかす事で、クラス内でのポジションを確立し、自尊心をギリギリの瀬戸際で保っていた。
我ながら浅ましい。

しかし、特定のクラスメイトからは絵を馬鹿にされたり、勝手に消されたりしていた。
ただの悪ふざけ程度だし…などと考えて私は閉口していた。
我ながら阿呆だ。
本当は、殴りたかった。

中学生にもなると「落書きしてる奴は勉強の出来ないクズだ」という思想強めの先生に出会った。
「なんでクズなんですか?」と聞ける雰囲気でもなかった。
恐らく、マリオサンシャインのストーリー冒頭と同じ目にあったのだと思われる。

美術の授業では、クラスメイトから作品を馬鹿にされた。
自分ではよくできたと思っていたが、捨てた。

このあたりから誰にも絵を見せなくなった。
よく描けたと思っていた絵も、大切にしていた自由帳も、燃えるゴミに出した。
馬鹿にされると思ったから捨てた。
我ながら愚かだ。

「絵を褒められる」という唯一の自己承認チャンスを失った私は、自信と自尊心を失いはじめ、心を閉ざし始め、真実の厭世主義者へと変貌していった。
「インターネットにちょっと詳しくて、運動がめちゃくちゃ苦手な、最悪の根暗ヤロー」にステータスが更新された瞬間である。

描いた絵を馬鹿にされたり、消されたりもしたのも、今ではいい思い出なのかもしれない。
成長ホルモンに振り回された子猿どもの仕業なので、仕方ないねと笑って許そう。

いや嘘だ、わざわざ記憶を掘り返して日記に書いている時点でかなり根に持っている。
やった奴の顔まで覚えている。
当時から、微塵も許すつもりはない。
私の絵を侮辱する者には、”細胞のひとかけらずつ”に恐怖と痛みを刻み込んでやるからな…。


こんな経験もあってか、今では現実の知り合いに絵を見せるのは「恥ずかしい」と感じる。
「自分の下手な絵は悪」で「それを見られると馬鹿にされる」という固定観念が、環境と性格によって植え付けられたからだ。
人の絵を見てもなんとも思わないのに、自分の絵となると、本当にダメだ。
仲が良い友達でも、見られた途端に赤面して喉が詰まる。

知り合いから「オマエのツイッターアカウント見つけたけど、絵好きじゃなかったわ。思ってたのと違った。」と言われた時は流石に絶望した。

そいつは正直で飾り気のない所が魅力なのだが、アカウント特定してまで私の絵を馬鹿にするのは、正直とか飾り気のないとかそういう問題ではない。
勿論アカウントごとデータを削除した。
ただ仲が良いので「恐怖と痛みリスト」には名前は入っていない。
命拾いしたな。

他の知り合いについ見られてしまった時には「上手いじゃん」と言われたが、お世辞にしか聞こえなかった。
私は「そんなでもないよ」と言って、ファイルに絵を隠した。
悪口だけはまっすぐに受け止めて、褒め言葉となると疑ってしまう。
我ながら、不器用というか、根暗というか…。

「つくったもの」と「自分の気持ち」を切り離せないのは、幼稚で痛々しい。
だけど、気持ちを込めてつくったのだから、仕方ないではないか。
気持ちを込めてつくらねば、寂しいではないか。
こんな私だから、描いた絵を見せておいて「ケチをつけるな」などと、矮小な事を考えてしまう。
こんな心にもなって、まだ絵を描こうだとか、漫画を作りたいなどと思ってしまう私は、救いようのないマゾヒストなんじゃないか。
こんな奴が絵を描くなんて、本当に馬鹿みたいだ。

絵なんて描くな!!

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