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これが正しいと思ったときが危ない 「こだわり」が相手を傷つける

「これが正しい」と思うときがあります。

考え抜いた結果かもしれませんし、突然の閃きかもしれません。いずれにしても、自分としては納得できる答えが出たという手応えを感じる瞬間です。

しかし、この正しいと思った瞬間が危ないのです。

この正しい答えを相手に伝えても、残念ながら多くの場合、あなたが思っている反応は返ってきません。反応が薄かったり、異論が返ってきたり。

そして、上手く伝わっていないことで、ムキになります。さらに言葉を重ねることで、拒絶されたり、口論に発展したりします。



なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。

「これが正しい」と思っているとき、あなたの言葉は、あなたが思っているよりも、かなり強くて固いのです。それは相手を威圧します。人によっては、威圧されて従順になる人もいるでしょう。言葉に力があるので、一部の人はあなたのファンになると思います。

でも、多くの場合は、威圧されると、後ろに引きます。そして、さらに強くなると、あなたの言葉は、相手の世界に土足で足を踏み入れます。

「これが正しい」と言われた相手は、自分の世界を侵害されたと感じるのです。それに従うか、無視するか、戦いを挑むかになります。

言った方は、「ただ正しいことを伝えただけなのに」と、思うでしょう。論理的には正解かもしれません。ただ「あなた自身」に、相手を圧倒する力があることに、多くの人は気づいていません。



では、なぜ正しいと思って発した言葉は、相手を圧倒するパワーを持っているのでしょう。

禅の師匠は「これが大事だと思っているときが危ないのです」と話されていました。

大事だと思っているときは、正しいと思っているときと似ています。

「これは正しい」「これは大事だ」ということに、こだわっているのです。どんなに論理的には正しくても、その底には「こだわり」が流れています。

「こだわり」には余計な力みが入っていて、言葉も固いエネルギーを持っています。固い石を投げられると、相手も身構えるでしょう。場合によっては、相手を傷つけることもあります。こだわりは、他者に大きな影響を与えるのです。

「これは正しい」、「これは大事だ」と思ったとき、まずはその底に流れている「こだわり」に気づけるかがポイントです。そんなときは、いったん温度が冷めるまで待ちましょう。いい温度になったとき、まだあなたは正しいと思っているでしょうか。

時間がたっても、まだ伝えたいと思っているときは、だいぶ「大事というこだわり」が手放せています。「正しい」、「大事」というこだわりが抜けたメッセージは、相手を圧倒する力みが抜けています。結果として、相手も受けとりやすいです。

もし、どうしてもすぐに伝えたい場合は、「大事だと思っていることがあります」、「自分は正しいと思っているのですが・・・」、「私のこだわりかもしれませんが・・・」と、言葉を添えましょう。すると、相手が受けとる準備ができます。



少し「こだわりの正体」について、深めてみたいと思います。

普段、私たちは何気なく思考しています。思考しながら何かを見たり、相手の話を聴いているのです。

これは、思考というフィルターがかかっている状態です。自分の思考で相手の話を解釈したり、意味があると思う部分だけを切り取って理解しています。

これが良い、悪いというのではなく、人間の自然な働きです。

坐禅は、いかに思考の目や思考の耳から離れるかの修行です。考えながら坐っていては、坐禅ではありません。

思考していないあり方とは、今起こっていることに気づいている状態です。息の出入り、見えているもの、聞こえてくる音、触感・・・。思考することが悪いのではありません。思考しているときは、思考していることに気づき、再び呼吸に戻ればいいのです。

坐禅を続けていると、周りがクリアに見えてきたり、相手の話が新鮮に聞こえてきます。

禅では、ありのままを見る修行をしているといえます。ありのままが見えるとは、少し言葉を換えると、初心の目であり、ありのままが聞こえるとは初心の耳と言ってもいいかもしれません。

身体が初心に戻っているとき、こだわりは薄れていきます。



私自身、まだまだありのままが見えているとは思いません。ただ最近は、思考の目で見ているとき、思考の耳で聞いているときが分かるようにはなってきました。

そういうとき、「これは大事だ」「これは正しい」ということへのこだわりが強くなります。

そして、面白いことに、そのテーマを何度も繰り返して思考しています。

ちなみに私の場合、よくお金のことが浮かんで来ます。

通帳の残高、今月の収支、お金への心配、「もっとお金があったらよいのに」という欲、自分のお金を守りたいという執着。お金をめぐって、いろいろな思考がグルグル回ります。恐らく、これまでの人生で、お金のことを何万回以上考えてきたと思います。そのお金への思考は、固く強い言葉になっています。この思考で作った塊が「お金へのこだわり」です。

別にお金のことを考えたいと思っているわけではありません。自然に思考しているのです。長年の思考によって、お金に関するこだわりは、自分で思うよりもかなり強固になっています。

残念ながら、これまでお金のことでつながった相手とは、関係が上手くいかなくなることがよくありました。そのときは、こちらは「正しいこと」を冷静に言っているつもりです。

しかし、恐らくお金のことを考えているとき、何を言っても、多くの場合、相手を威圧しているのでしょう。

お金にこだわっている瞬間、私も苦しいです。苦しい中で、無理に言葉を発しているのです。だから、余計な力みが入るのでしょう。



仏教には、「戒」があります。戒とはつまり、やってはいけないことです。十戒の中に、「不蓄金銀宝戒(ふちくこんごんほうかい)」があります。これは蓄財をしないことです。

これをどう捉えるかですが、私は、「人には止めようとしても止められないことがある。そういうものには近づかないこと」ではないかと考えています。

近づけば、どんな強い意志をもってしても逆らえない、人間の業があります。そういうものから出来るだけ離れた生活を送ろうと。これも生きる智慧ではないでしょうか。



最近は、お金でこだわりが発生しそうな人間関係や場には、近づかないようにしています。おかげさまで最近は、お金のことを考える回数はかなり減っています。そして、その逆の方向には、豊かなご縁が広がっていることに気づきはじめました。

誰しも日々何度も思考している「テーマ」があるはずです。それがあなたの「こだわり」です。

あなたが何度も思考することは何でしょうか?それはこだわりとして、相手とぶつかっていないでしょうか。

それは、あなたに与えられた人生の宿題といえます。こだわりが悪いのではありません。そこにもまた、人生を豊かにするヒントがあります。

私にとって、お金にこだわる方向への思考や出会いは、快や欲を求めて執着し、暗闇の中でひとりぼっちで苦しみます。一方で、お金とは関係ないご縁に生きるとき、導かれている方向に進んでいます。そのとき、希望の光に照らされていることに気づくのです。

「こだわり」をどう生きるか。

ぜひ問いを持ってみてくださいね。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今回は極力、「大事だ」というメッセージを込めないように書いてみました。

いかがだったでしょうか?

読み返してみると、「禅」「仏教」という言葉が何度か登場しています。禅の考えを大事にしているのですが、これも危ういと思います。

以前、禅で学んだことを妻に話していて、「そんなに禅はすごいの。普通に仕事していたらいけないの」とキレられたことがあります。恐らく、禅へのこだわりが妻を威圧していたのでしょう。

大事だと思うから勉強もしますし、頑張れることもあります。しかし、それはどこかで、こだわりになっていきます。

まさに「いい塩梅」が大事なのだと思います。私自身、こうやって書くことで自分への戒めにしています。


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