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いのちの弾力とは 「私などない」からスタートしましょう

自分は器が小さい人間だとずっと思っていました。

怖がりで小心者だし、ケチで、すぐに腹が立つ。

自分について考えはじめると、器の小ささにガッカリします。

そもそもコーチになったのも、少しでも自分の器を大きくしたいという思いがありました。結局、器は大きくはなりませんでしたが(笑)

ただ、あるときこれは「本当の私」なのだろうか?という疑問が湧いてきたのです。

禅に出会って、「私というものはない」という世界があることを知りました。すべては、つながりで顕れてくる「働き」であると。私というのは、あくまでも自我で理解している自分の姿。私というものはないという自我を離れた世界から本当の「わたし」が顕れてくるというのです。



コーチングのセッションでクライアントさんの話を聴いていると、器の小ささは消えていきます。

聴くというのは、「私」という自我が消えて、つながりが顕れてくる行為なのです。(この点については、またあらためてお伝えしたいと思います。)

つながりで顕れてくる「わたし」は、自分で知っている「私」とは違うようです。
私が思っているほど悪くはないし、すごくもない(笑)。正直で素直だったりするみたいです(というのも自分ではよく分からないのです)。

私の目でなにかを見ようとしているとき、自分や相手をジャッジします。その結果、本来のつながりが切れて、批判や執着など、さまざまな苦しみを生み出します。

わたしたちの目は、全体を包み込んでいきます。その目は、とても温かい。



「私が考える人格」と「つながりで顕れてくるわたし」は違います。

でも面白いことに、どちらも「あなた」なのです。



ちなみに最初にお伝えした「器の小さい私」は、自分が知っている人格です。

しかし、自分で認識できる「私」だけでは、どうにも説明ができない働きを人間は持っています。

それが「つながりから顕れてくるわたしの働き」です。

残念ながら、この「わたしの働き」は自分で見ることはできません。認識できなくていいのです。そういう働きがあることだけ知っておけばいいのです。

セッションで顕れてくる「素直さ」や「正直さ」は、自分では分かりません。いいかどうかも判断できません。なぜなら、それは全体の一部として溶け込んでいるからです。

これは波が海の一部のようなもの。波だけをこの手で掬いとることはできないのです。

人間にそういう働きがあるかどうかは、科学では説明できません。あなたが直感的にピンとくるかどうか。

人間開発、組織開発において、この自然に発露してくる「目に見えないつながりの働き」を含めるかどうかで、個人も組織もまったく進む方向が変わってきます。



「私」と「わたしたち」はどちらがいい悪いではありません。どちらにもそれぞれの働きがあります。

「私」は自分を固めようとします。固めるというのは「キューッと縮める」ような感じでしょうか。言葉は、つながりを断ち切って、概念の枠を作ります。その枠の中にエネルギーを閉じ込めます。

一方で、「わたしたち」は解放する働きです。「フワーと広がっていく」感じでしょうか。つながりの世界に向けて解き放たれて、自分が消えていきます。

あなたは「キューッとする瞬間」と「フワーとする瞬間」を感じているでしょうか。

私(キューッ)→わたしたち(フワー)→私(キューッ)→わたしたち(フワー)というのは、収縮と拡大の繰り返しです。

キューッとフワーの繰り返しは「いのち」の働きであり、「いのちの弾力」といってもいいのではないでしょうか。

これは寄せては返す波のようなもの。この波を感じられるようになると、いろいろなことが、頭に残らなくなっていきます。苦しいことも楽しいことも、怒りも悲しみも、やってきて、戻っていくのです。体験したことが流れていくのです。


少し抽象的な話になりましたね。最後に少し体験談をお伝えしたいと思います。

「言うべきかどうか」で悩むときがあります。

言いたいことがある。ただ、状況を考えると、伝えることが正解なのか。言わない方が上手くいくのではないか。もっといい言い方があるのではないか。

なかなか悩ましいテーマです。私もよく考えます。

結論から申し上げると、言っても言わなくても同じです。

なぜなら、言うべきかどうかは「私の目」で世界を見ている状態だからです。言いたいことにこだわっているか、相手を配慮して我慢しているか。いずれにしても、あなたが作り出した世界の中で、もがいているのです。

ここで「わたしたちの目」で世界と関われるか。わたしたちというあり方で、起こっている出来事とともにいるのです。

わたしたちの世界にいられると、思わぬ言葉が出てきます。あまりにも自然で、とてもサラリとした言葉です。

サラリと言っているかもしれません。逆に、相手の言い分をサラリと聞いているかもしれません。あるいは、いっしょに笑っているかもしれません。

サラリと言えるとき、あなたのこだわりは消えています。我慢もありません。

最近、私自身も、サラリと出てくるまで、「わたしたちの目」で待っていることにしています。

といってもいきなり「わたしたちの目」が現れてくるわけではありません。まずは、キューッとなっている状態に気づくことからはじまります。キューッとなっていることに気づけたとき、フワーとなります。

キューッと固まって、フワーと広がっていく。この繰り返しが感じられるようになると、次第に「わたしたちの目」が現れてきます。

苦手に飲み込まれているとき、言葉は重いです。相手を責めているとき、言葉は粘っこいです。

苦手から少し距離が置けたとき、軽くなります。苦手なことを苦手と言えそうなとき、もう苦手ではなくなっています。

サラリと言えそうなときが、何か行動を起こすタイミングといえます。

まずは、キューッとしているとき、フワーとしている瞬間を感じることからはじめてみませんか。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。今回の記事はいかがだったでしょうか?

「私の目」で書いているときと、「わたしたちの目」で書いているときでは、どうも言葉が変わってくるようです。

今回は、一週間ほど「フワー」としていました。ポツポツと浮かぶ何かの断片を拾う日々。脈絡のないキーワードをノートに書き出していきます。そして、あるとき「キューッ」とエネルギーが固まっていきました。断片が文章となってほとんど一気に書き上げました。

弾力のあるメッセージになっていれば幸いです。



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