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人生が反転するとき4 自我で作った輪郭が消えていく

通常のコーチングでは、「何かをする」ことで「なにもの」かになろうとします。

禅コーチングでは、「何もしない」ことで、「なにものでもない」という「無心の世界」に入っていきます。

何もしないために、いろいろなアプローチがありますが、まずは「する」ことを減らしていきます。することが減ることで、力みが減っていきます。



食堂を始めて8ヶ月が経ちました。少しずつ食堂に自分がなじみ始めているように感じます。

ところが、あるクライアントさんと「何もしない」世界の話をしていたとき、「セッションのときと食堂にいるときの赤野さんは違いますね。食堂では赤野さんの輪郭がくっきりしているように感じました」と言われました。

これまで、「任せて、委ねて、急がない」ことで、大分「私」という存在は消えたと思っていました。でも、確かにまだ「何かをしている私」がいるのです。



坐禅にも「する坐禅」と「しない坐禅」があります。
「する坐禅」とは、私という輪郭がある坐禅。「しない坐禅」とは、自分の輪郭が消えている坐禅です。

「する坐禅」をしているときは、どこか表情が頑張っています。

一方で、「しない坐禅」では、余計な力みが自然に抜けていきます。力みが抜けていくと、表情は無になっていきます。



クライアントさんとの禅コーチングは「2人坐禅」とも言えます。セッションをしていると、さまざまな力みが抜けていき、自我で作っていた輪郭が消えていくのです。

そして、あるとき、クライアントさんは子どものときの顔に戻ります。大人の顔から少年、少女の顔へ戻るのです。ひょっとしたら、それ以前の、もともとの顔かもしれません。

自分では、戻ったときの表情はよく分からないみたいです。「何もない」とき、それは空の世界であり、まったく色がついていないので、それは目に見えません。

ところが、人は作ったものは分かるのです。それを自分だと誤解しています。



あなたは、力みがあるときの表情と力みが抜けたときの表情を知っていますか?

あなたが、「自分はこんな顔だ」と思っている表情があるでしょう。
笑っている表情、怒っている表情、悲しい表情、冷静な表情・・・
どんな表情でしょうか?

ちなみに、私が必死で考えているときは、目を大きく開いて、必死に何かを見ようとしています。これは「何かをしている自分」の表情です。

一方、セッションでクライアントさんの話を聴いているときは、まったく違う表情になっているそうです。そのときの表情は自分では分かりませんが、話を聴いていると「自分」という輪郭が消えていくのは感じます。

最近、食堂にいるときも、3つのない「貪っていない」「怒っていない」「執着していない」を唱えています。

あるとき、お客さんがやってくるのを必死に待っていることに気づきました。車が駐車場に入るのを逐一目で追っているのです。これは貪っている目といえます。恐らく、そのとき目は大きく開いていたのだと思います。

待ちすぎているのです。切望しすぎて、待つことで心身が固まっていました。

そのことに気づいたとき、ふと「『待たないあり方」ってなんだろう?」という問いが湧いてきました。

ただ、そのまま問いを持ち続けていると、「お客さんがやって来てくれること」という声が聞こえてきました。

お客さんを必死に待っているとき、私が頑張っているのです。お客さんが来てくれるというのが、何もない自然な流れではないかと。

スッと肩の力が抜けた気がしました。その瞬間、いつもお客さんを必死に待っている定位置ではない、別の場所が目に入ったのです。それは食堂の隅っこです。しかも店の出口付近です。

食堂を始めた当初は、カウンターのセンターで、先頭に立って頑張っていました。一番大きな声で挨拶する。誰よりも先に挨拶する。誰よりも笑顔でお迎えする。頑張っている背中を見せるのがリーダーだと思っていたのです。

しかし、それは逆にみんなの流れを邪魔していることに気づきました。そして、洗い場に下がりました。でもそこでも、まだ「お客さんが来るかどうかを心配している私」「みんなに任せて委ねているのを認めてもらいたい私」の輪郭が浮かび上がっていたのです。

そして、今回は出口の隅っこ付近へと導かれました。

この場所は、お客さんがお店の駐車場に入っている様子も、時計も一切見えません。まったく頑張る必要がない場所です。

そんな最後尾の場所にいると、いろいろな流れが見えてきました。食堂のさまざまな音が耳に入ってきます。静かで心地よい場所です。

自分がお客さんに向かっていくのではなく、やって来てくださるのを感じている場所です。

恐らく、「私」という輪郭は、さらに消えているのではないかと思います。



そんな場所にいたある日、常連のお客さんから「昨日は店長さんいなかったね。あなたのファンだから寂しかったよ」と言われたのです。今まで、私の接客へのクレームをアンケートに書かれたことは何度かありましたが、存在を認めていただいたのは初めてでした。

頑張っているときにクレームがきて、頑張らない場所にいると認められる。不思議ですね。

なにものでもない「わたし」がどうお客さんの目に映っているのかは分かりません。ただ、少なくともこういう風に見られたいという頑張りがないのは確かです。



今、あなたはどんな表情をされていますか?

そして、あなたが頑張らなくていい場所は?



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

なぜ「私」を消したいのか。残念ながら、言葉になる理由は見つかりません。ただ、周りと交わる中で、気がつけばその方向に自然に流れている。これが分からない世界にいるということもしれません。

誤解がないように申し上げると、くっきりと輪郭があるのが悪い訳ではありません。素晴らしい自我で立派な仕事をされている方が大勢おられます。むしろ、私がお伝えしている「なにもしない」道の方が圧倒的に少数でしょう。

自分に与えられた「いのち」を生ききることに正解はありません。ただ、自我を固めることだけが道ではないことを知っていただければ幸いです。




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