人や音が異物に感じるとき 「集中」から「脱集中」へ
私は場に馴染むのが苦手です。大勢の人がいる場所にいくと、それだけで緊張します。周囲と切り離されている孤独感を感じることもあります。これは、自分が場から浮き上がっている状態といえます。
また、周りの人や音、景色が異物に感じる時があります。そういうとき、邪魔なものを排除しようとするかもしれません。
これは、頭が頑張っている状態といえます。頭が頑張るというのは、自我が強くなっています。自我の強さは、周りとの間に境界を作ります。この境界が壁になり、外部を異物に感じるようになるのです。
あなたも宇宙人のイメージ図を一度は見たことがあるでしょう。脳だけが発達したせいで、頭がでっかくて、身体がヒョロッとした感じです。
頭が頑張っているというのは、言い方を変えると「部分」だけが際立っています。これは全体性を失っている状態。人は全体性を失っているときに、周りを異物に感じ、排除する傾向があるのです。
周りを異物に感じるかどうかは、あなた自身にも、そしてあなたの周りにも影響を与えています。
何かをしているとき、周りの人が消えたり、周囲の雑音が聞こえなくなった状態になることがあります。周りが消えて自分だけになっている状態を「集中している」と思っている方も多いと思います。
確かに周りと遮断されている状態を「集中している」と言えなくはありません。作業がはかどったりすると、すごく充実した時間だったと感じるかもしれません。
ただ、なにかする状態に偏っています。周りからあなただけが浮き上がっています。実はかなり心身が無理をしているのです。
なので、この集中は長続きしません。独りよがりになっている可能性もあります。また、あなたの自我が浮き上がるほど、周りともぶつかります。要は、調和していない自我の集中なのです。
少し例を挙げてみましょう。
夢中でパソコンに向かっているとき、周りの音は聞こえているでしょうか。もし、聞こえていないとしたら、あなたがキーボードを叩く力は強すぎて、パソコンにダメージを与えたり、大きな音が周りに不快感を与えているかもしれません。
また、夢中で人と話しているとき、相手の姿が目に入っているでしょうか。もし、相手の顔が見えていないとしたら、あなたの話は一方的になっているかもしれません。
運転しているとき、周りの音や車は目に入っているでしょうか。もし、何か考え事をしていて音や景色が入っていないとしたら、ちょっとした混雑にイライラしたり、周りの車を邪魔に感じたりと事故が起こりやすい状態になっています。
先日、医学部を目指す受験生へのメンタルトレーニングの講義をしました。今や医学部は日本で最難関の受験になっています。
この時期、受験生は精神的にかなり追い込まれています。会場には、保護者も来られていましたが、「不安」「焦り」を感じているお子さんへの対処法について質問を受けました。
受験は、暗記や読解など、すべて頭を使う作業です。頭だけを使いすぎた結果、些細なことにも反応しやすくなり、周りにも過敏になっています。少しのミスも許せなくなり、中には問題を見るのも怖くなっている受験生もいます。
こういうとき、特に気になるのが「音」のようです。少しの音にも敏感に反応するのです。まさに、外部を異物に感じているのです。このような精神状態では、本来の力を発揮することはできません。
いかに全体性を取り戻すかが大切です。イメージとしては、自分という輪郭が薄くなっていく感じでしょうか。自我の輪郭が消えていくと、周りの景色や風や音が感じられるようになります。
禅の修行では、「集中」という言葉を聞いたことがありません。師匠からは、「部分」に偏ることを戒められます。自我が発動すると必ず「部分」になっていくからです。その部分的な状態の一つが「集中」なのです。
たとえば、息を長く吐くことを指導されたとします。すると、当然ですが、息の吐き方を意識するでしょう。その時点で、息の吐き方に集中しているので、すでに部分的になっています。ゆえに、なにかをするという行為は、常に部分的になる危険性をはらんでいます。
もちろん、呼吸などの訓練は必要です。ただ、なにかをしたら、必ず部分的になります。最初は上手くいっているように感じても、さまざまな違和感が生まれてきます。
部分の修正と全体性のバランスをとっていきたいものです。そのために、なにかをしたら、なにかをしないことをすることが大事になります。
なので、禅について語ると「坐禅とはしないことをする」といった、分かりにくい表現になるのだと思います。
これは「脱集中」の方向性です。
坐禅をしていても、周りの音が雑音として邪魔に感じるときがあります。こういうとき、自我の壁ができていて、内側に閉じている状態になっています。
一方で、周りの音や人の存在が心地よく感じる時があります。
坐禅をしながらただ空気が身体に出入りするのを感じていると、自然に外側に開いていきます。そうすると、音や風が身体に入ってくるのを感じます。
これは、頭だけが頑張るのではなく、身体と頭が調和し、自我が薄まっていく方向です。
そのとき、周りと自分は馴染んでいるのです。
音が問題ではなく、そのときの自分のあり方が、音を雑音にもするし、ハーモニーにもします。
違和感を覚える音もありますし、心地よくない状況もあります。それらと、どのように一緒にいればよいでしょうか。
たとえば、心地よくない音を遠ざけようとするほど、異物になっていきます。それは頭が頑張っている状態です。
スポーツでも、音に敏感な選手は多いです。自分の心を平静に保つために、試合直前にイヤフォンをつけて好きな音楽を聞いていたりする姿をテレビで見たことがあるのではないでしょうか。これは、瞬間的に頭をリラックスさせる効果はありますが、非常に人工的な方法です。残念ながらナチュラルではありません。
周りのエネルギーを選り好みにしている間は、嫌いな状況が生まれると、途端に脆くなります。それが怖いので、さらに嫌いなものを遠ざけようとするのです。
長く第一線で活躍しているアスリートは、周りのエネルギーに対して、寛容です。周りと自分という区別がないというか、あまり気にならないといった方がいいかもしれません。
もちろん、違和感を覚えることはあります。しかし、それにこだわらないのです。好き嫌いで音や情報を選ぶのではなく、ただ入ってくるのを受け入れる。
自然に身体に入ってくるのを許す。雑音もふくめ、周辺のエネルギーを均等に受け入れる感覚かもしれません。
部分から全体性への方向は、偏りから均等というイメージかもしれません。
嫌いな人もいます。嫌いな音もあります。それは避けられないです。
ただ、そこを殊更にクローズアップし、部分にこだわるのか。一方で、そういうときこそ、全体性へ戻るのか。
部分になったら全体性へ。そして、全体性は部分を照らす。部分と全体がいつもクルクルと回っている感じと言えるでしょうか。
言い方を変えて表現すると、部分とは固まっている状態。一方で、全体性とはいつも流れています。だから、風が身体に入ってきます。景色や音が身体に入ってくるのです。
今回お伝えしたことは、巷のセミナーで教えられていることとは違って、すぐに出来るようにはなりません。
できるかどうかではなく、どういう方向性で生きるのかだと思っています。
自分で作る集中には限界がありますが、
脱集中の方向には、無限の世界が広がっています。
周りの人や音は、あなたに何かを教えてくれるように思います。
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