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「私は何者なのか?」という問いを持っている人へ

最近、私が経営者やアスリートとさせていただいているセッションは、メンタルトレーニングでもないし、コーチングでもないと感じています。

誤解がないように申し上げると、コーチングやメンタルトレーニングを否定しているのではありません。

上手く言えないのですが、コーチングとかメンタルトレーニングという枠に違和感を覚えるのです。科学的にすればするほど、怪しさはなくなる一方で、扱う領域が囲われていきます。

私の目は、いつも枠の外に向いています。

「〜ではない」のではないか。
概念の外に出ることに心が惹かれるのです。

だから、コーチと名乗ることにも違和感を覚えるようになっています。といっても、カウンセラーでもないし、トレーナーでもないし、もちろんお坊さんでもないですし(笑)

この世で生きていくのに、なかなか適当な肩書きがありません。

本当の自分に戻っていくことを対話でサポートするのが役割だとは思っているのですが。パートナーと言った方がいいかもしれません。

ただ、こんなふわっとした感じでは、きっと仕事を頼む方も、なにをやっている人か分からないでしょう。今のところ、コーチがこの世界での表現に一番近いように思うので、便宜的に使わせていただいています。

こんな葛藤を抱きながら、お仕事をさせていただいていますが、本当のところ肩書きはなくていいです。


ずっと、「私はなにものか」という問いがありました。もちろん、今もあります。

若いときは、何者かになろうとして、知識やキャリアを積み重ねました。社会に認められる存在になることを求めていましたが、私の場合、何者かになることはできませんでした。

禅に出会って「私というものはない」という世界があることを知りました。すべては、ご縁とのつながりで顕れてくる「働き」であり、それが「私」から離れた「わたし」であると。

自分で固めた「私」から、つながりの中で生きている「わたし」へ。これが、禅の修行で体験していることです。

先日、50歳になりました。

なんとかここまで生きてきました。これからどう生きていくのか、まったく分かりません。普段通りお仕事はすると思うのですが、自分というものは、さらに分からなくなくなりました。

ただ、年々生きることが楽になっています。何者でもない方に向かっていることで、生かされている力の助けを借りられるようになってきたのかもしれません。

人は、瞬間瞬間、何かに反応し、思考しています。何が顕れてくるかを自分でコントロールすることはできませんよね。周りとの関係性の中で、「わたし」は常に揺れ動いているのです。それを必死で考えようとする「私」も含めて。

「意志」さえも、自分の計らいだけでは成り立ちません。



この何が起こるか分からない世界で、ただひとつできること。

それは今この瞬間に起こっていることに「気づく」ことです。

この気づきには段階があります。

まずは、「私」に気づく。「私」を知る。

たとえば、「怖い」という言葉があります。人に会うと「怖い」、何かをやろうとすると「怖い」。

これは「私が怖い」状態です。怖いのは私のものなのです。

何が怖いのか、なんで怖いのか、分析することで、自分を知ることができます。「私を知る」ことで、少しずつ自己理解は深まっていきます。また、自己理解が深まる中で、相手の怖さも理解することが出来るようになっていきます。

自分を知り、そこからよりよく生きる方法を探していく。

これは心理学の領域です。まずは「私」に気づくことが、「私」が自由になっていく方向です。

何かを成し遂げることが人生の目的であれば、「私を知る」ことで十分かもしれませんね。


ところが、もし、「自分とは何者か」という問いをあなたが持っているなら、そこでは探究の旅は終わりません。私を知ることは、旅のはじまりなのです。

「私」を知ることで、自分で固めている自分に気づき始めます。

「私が感じる」「私が考える」

「私の人生」を生きているとき、私の思考は、私のものです。私が悪いことを考えているとき、私が悪いのです。私がいいことをしているとき、私は良い人なのです。

これは私が実在している段階での気づきです。

そして、どこかで「私」では説明出来ない矛盾にぶち当たります。

「私」では捉えられない、この世界の働きがあるのではないか。

私の思考は、私のものではない。良いことも悪いことも、それを思考しているなんらかの働きが起こっているだけ。

その働きをつぶさに観察していくことで、少しずつ言葉で固めていた概念がバラバラになっていきます。



それが、「私」から離れた「わたし」です。



ここで、最近「私」が感じている「わたしの働き」を言葉にしてみたいと思います(これはあくまでも個人的な体験なので、理解していただかなくても大丈夫です)。

全体の働きのなかに「わたし」がいる。その一方で、「わたし」から世界ははじまっている。

つながっているが、孤独な存在でもある。

矛盾していて、AかBかで切れないグラデーションの世界。



思考している私を「実体」と見るか、「働き」と見るかで、この世界はガラリと変わってきます。

一般的なコーチングやメンタルトレーニングは、「実体」を強化していく方向です。

そして、禅やアートは、「働き」に気づく方向です。

「わたし」に出会っていくことに共通しているのは、「体験」と「気づき」です。

さきほど「怖い」ということについて、お伝えしました。

「私」の自分は怖さを分析し、乗り越えようとします。それは「私の怖さ」だからです。人は思考で作った「怖さ」という塊を持っているのです。

一方で、怖さを体験するのは、「怖い」を分析するのではなく、怖さという働きに気づくというアプローチです。

怖さを体験し、気づき続けることで、少しずつ「怖い」という固い塊がほどけていきます。自分で作っていた怖さという概念が、体験と気づきによって、分解されていくのです。

怖さは流れになっていきます。

「私の怖さ」は、部分から全体へと開かれていきます。「つながりのこわさ」になっていくとき、「こわさ」はひとりぼっちではありません。

これは個人的体験ですが、「怖さ」が「こわさ」へとシフトしていくと、だんだん「こわさ」という言葉が薄くなっていきます。よく分からなくなっていくのです。

その先は、私もまだ言葉になっていません。今もまだ体験している途中です。

「私とは何者か」という問いは、決して苦しむためのものではありません。「私はなにものでもない」世界からの導きの声ではないでしょうか。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

こうやって書いていると、よく分からなかったことが言葉になっていきます。これはとても充実したときです。ただ、書くことで「考え」が固まっていきます。

この考えを持ってセッションに臨めば、枠に囚われたものになります。クライアントさんのありのままの姿が見えなくなるのです。今回書いた考えは、セッションでは、まったく役には立ちません。

書いたら手放して、ゼロに戻ってクライアントさんに向き合うのが大切だと思っています。セッションで、固めた考えはバラバラになっていきます。

そして、その体験に起こった気づきをまた言葉にしてみます。バラバラになったものを少し集めて形にしてみるのです。すると、また違った言葉になっています。それがこの記事です。

固まってはほぐして、ほぐしては固まって・・・

そんな繰り返しも「わたし」の世界の働きかもしれません。



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