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頭が疲れていませんか? 腹八分目、思考も八分目でいきましょう

ある夜、ウォーキングをしていたとき、夜空を見上げると、星がキレイに見えました。

文章にするとたったこれだけのことですが、体験するのは結構、難しいです。

目にフィルターがかかっていることがよくあることに最近気づきました。

思考というフィルターを通して見える景色は、ありのままの景色とは違います。見ているのですが、スッキリとクリアには入ってきません。

考えながら見ていると、ありのままは見えていません。考えがフィルターになっているからです。

人間は、自然に考えています。考えすぎると、どんどん思考は増えていきます。

食べすぎると、身体は肥満になっていきます。お腹は疲れているのに、まだ空腹感があるというのは、身心のバランスが崩れて、満腹中枢が上手く働かなくなっているのです。

頭も同じといえます。現代では、頭が満腹になっているのに気づいていないケースが多いです。身体のように目に見えないだけに、自覚が難しいです。

頭が思考でいっぱいになっているとき、夜空はキレイには見えません。頭が疲れていると、周りの人も景色も色褪せていきます。

これは、お腹がいっぱいだと食事が美味しく感じられないのと同じです。

頭がいっぱいになってくるとどんな現象が起こるでしょうか。

・思考が止まらなくなる(考えすぎてしまう)
・新しいアイディアが浮かんでこない(スペースがない)
・いつもだるくて眠い(休めていない)
・すぐにイライラする(過敏状態)
・余裕がなくて焦っている(先へと駆り立てる)

人は空腹になっているときに、ご飯を美味しく感じられるのです。



いかに思考も空腹になれるかが大切ではないでしょうか。

頭の空腹とは、頭が空っぽの状態ともいえます。

では、頭が空腹を感じているときは、どんなときでしょうか?

禅の師匠が、「物足りないくらいが丁度いい」とおっしゃっていたことを思い出しました。

頭は、常に何かで埋めようとします。

物足りなさが耐えられないのです。

あなたには、こんな傾向はないでしょうか?

空いた時間が嫌
寂しさが嫌
分からない状態が嫌
楽しくないのが嫌

上にあげたものは、頭が「もの足りなさ」を感じているときの状態の一例です。

そして、何か予定を入れて埋めようとしたり、物で満たされようとしたり、テレビやYouTube、ネットをみて刺激や楽しさをもらおうとしたりします。

これらがダメな訳ではありません。ただ、何かで埋めているというのは、なにかを食べ続けているようなもの。頭は空っぽにはなれません。

逆にいえば、先程のような声が聞こえているときは、思考が枯渇状態を感じているときです。

もの足りないという声が聞こえているのが実はちょうどいいのです。ただ、お腹が空くとすぐに食べたくなるように、思考もすぐに何かで埋めようとします。

いかに頭の空腹でいられるか。

寂しくていいよ、分からなくていいよ、なにもしなくていいよ、楽しくなくていいよと言われても、それが一番難しいかもしれません。もの足りないから、頭はすぐに何かをしようとするからです。



禅は「しないことをする」修行といえます。

心を落ち着けるために瞑想をされている方もおられるでしょう。ただ、瞑想も頭でやっていることがあります。

リラックスしよう、深く息を吸おうという「する瞑想」になっているのです。しようとすると、それは思考が発動している状態です。

せっかくの瞑想で、さらに頭が疲れている人も多いのです。

曹洞宗の坐禅は「只管打坐」です。禅の師匠は「坐禅は悟りという目的を達成するための手段と捉えてしまいがちです。只管打坐とは主題(テーマ)を持たず、いかにただ坐るか。」と語っておられました。

坐禅でも、つい「呼吸に集中することで心を落ち着けたい」「坐禅で集中力を高めたい」といったテーマをもとに坐ってしまうのです。

坐禅をテーマでやってしまうと、それは心を落ち着けるためのアクティビティではありますが、坐禅ではないのです。

ただ坐るのが坐禅。

思考を減らすためのあり方として、まずは「目的やテーマを手放す」ことです。

そのひとつの手がかりが「受動的なありかた」です。

そういう意味では、坐禅は、完全に「受け身のあり方」といえます。

いい呼吸をしようとするのは、「する呼吸」です。そうではなく身体は自然に息をしてくれています。止めない限り、息を吸って吐いているのです。その身体の動きを感じるのは、受動的なあり方です。

あるいは、思考している目というのは「見る目」です。目は、自然に見てくれます。目はどんな景色を写しているのかに気づいているというのも、受動的なあり方です。

ご飯を食べているとき、貪るように食べていると、「もう少し食べたい」で終わることはできません。貪っていない食べ方とは、ゆっくりと味わうことです。そして、8割はどこだろうと身体に聴きながら食べるのは、受動的なあり方です。

会話でも、自分が話しているときは、自分が言いたいことを満たそうとしています。いくら話しても、なかなか思考は満足しません。一方で相手の話を聴くのは、もの足りないかもしれませんが、これが受動的ありかたです。

最初は思考が減ってくると、何かが埋めようとするでしょう。その空腹感を味わいながら、だんだん思考が休めてくると、どこかで新鮮に感じるときがやってきます。

これが冒頭の、夜空の星がキレイに見えるという状態です。



私自身、言葉が浮かんでこないときがあります。このメルマガもそうですが、アイディアがやってこないのです。

以前は、さらに考えて言葉を探していました。しかし、最近は、まずは頭を休めるようにしています。

考えないのは、ちょっと苦しいですが、頭が空っぽになっていくと、どこかで新たなアイディアが湧いてきます。

AかBかで悩んでいることもあります。しかし、考えてもなかなか答えが出ません。そういうときも、思考を休めるときです。考えるのをやめて、まずは思考を空にしていきましょう。どこかで、AでもBでもない、自分でも思っていなかった突破口が見えてきたりします。

腹八分目、思考も八分目がいい塩梅といえます。いろいろ工夫してみてくださいね。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

先日、ある読者の方に、原稿の内容の感想をいただきました。ただ、どの原稿か分かりませんでした(笑)

自分で書いたものなのに、内容を忘れていることが多いのです。自分で書いたものを、あらためて読みながら、なるほどと思うこともしばしばです。

自分で書いたはずの原稿なのに、自分ではないのです。

もちろん書くときは何度も読み返しながら、言葉を足したり引いたりしています。言葉になっていない状態から、形になっていくプロセスが好きです。ただ、自分の中に残すためのものではないのです。

言葉になったときが別れのときなのかもしれません。

書いたらさようなら。

言葉に整理されたら、それは自分から旅立つとき。

整理して、手放す。

これが私にとって「書く」ということであり、生き方そのものかもしれません。



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