場にとけこむのが苦手な人へ 「馴染む」とは
前回に続き、「自我のコーヒーカップ」について、お伝えします。
前回の記事をお読みでない方は
「気が小さい」ということ 自我のコーヒーカップが溢れるとき
先日、あるクライアントさんとのコーチングのセッションの前、「今日はやりたくないな」と声がどこからか聞こえてきました。
「お金をいただいているクライアントさんとの時間に対して、なんて失礼な」という声が、その言葉を即座に打ち消そうとします。
しかし、どうもやりたくないのです。(といっても、こんなことをクライアントさんに言えるわけではありません。ただ、最近は、言えるクライアントさんもいます。)
ちなみに以前は、セッションの前に、心を整理して、万全な状態で臨んでいました。プロコーチとして恥ずかしくない自分でいることを大事にしていたのです。
ただ、最近は考えが変わってきました。心を整えるのは大事なことですが、無理にやりたくない気持ちを打ち消すのは、少し違うような気がしています。
このセッションをやりたくないのかというと、そうではありません。
面倒くさいけど、やりたくないわけではないのです。なら、最初からやる気がみなぎっていたらいいのですが、そうはいかないのです。
ここが人間のやっかいなところといえます。
私は、人と馴染むのが苦手です。人と会うだけで、胸がキューッとなります。無理に笑顔を作ったり、盛り上げようとして、言葉を作り出します。
また、やらなければならないことで、いっぱいいっぱいです。まったく余裕はありません。
そういう自分が面倒くさいのです。
本当に面倒くさいのは、状況でも相手でもなく、自分自身。では、どういうとき、自分が面倒くさくなるのでしょうか。やっかいな自分が現れてくる状況を少し書いてみたいと思います。
まず「人といること」です。私の場合、人と会うときや、大勢の場にいくと、身体がこわばるのが分かります。周りとの壁を感じて、孤独感が襲ってきます。場に馴染もうとして、無理に明るく振る舞ったり、余計なことを言って、あとで後悔したりします。こういうとき、本当に自分がやっかいです。
また、新しい状況やテーマにも、なかなか馴染めません。上手くいかないことばかり浮かんで来て、怖くなります。これまでやってきたやり方が安心なので、いきなり方向転換することに違和感を覚えます。
また、お金にも馴染めません。貯金通帳にお金が貯まっているのを見ると、その瞬間は安心しますが、その直後には、減っていく不安が生まれます。また、お金のことを考え始めると、他者と比べたり、損得にこだわったりと、自分が小さく固くなっていきます。
「とき」にも馴染めません。月曜日が特に憂鬱です。一週間への希望よりも、何が起こるか分からない心配で、胸がいっぱいになります。また、朝起きるとき、新しい一日が始まるのかと思うと、プレッシャーが襲ってきます。
年初はとても新鮮ですが、一年をどう過ごすかという緊張感の方が強いです。何かが始まるときは、ワクワクよりも苦しさを感じるのです。
馴染んでいないのは嫌です。だから安心感や心地よさを得ようとして、私の場合は自分に閉じこもりたくなります。そして、1人でいると、最初は安心感があります。ただ、どこかで余計なことを考えるようになります。悩まなくていいことを悩んだり・・・。閉じこもっていると、言葉が増えていくのです。
また、自分の心地よさを求めて食べ過ぎたりします。これは、「自我のコーヒーカップ」の中にいて、周りを排除して安心感を得ようとしている状態です。しかし、自分に閉じこもっていると、次第に自我がうるさくなってくるのです。これがやっかいになっていくパターンです。
人間のやっかいさは「自我のコーヒーカップ」と関係しています。
物事に頭で反応し、頭で考え、頭で対応していると「自我のコーヒーカップ」が現れます。
頭で反応するのは、自我が発動している状態。自我は周りに壁を作ります。この自我のカップは小さいので、すぐにエゴがあふれ出すのです。
「自我のコーヒーカップ」が現れていると、内側と外側の境界がクッキリしてしています。自我で言葉を発するとき、自分にこだわっている言葉が現れます。
気に入られようとしたり、大きく見せようとしたり、言葉にトゲがあったり、相手を評価したり、攻撃的になったりします。
まさに、セッションが始まるとき、私は、目の前に人がいるだけでドキドキです。その壁がある状態でいきなり馴染もうとすると、コミュニケーションに力みが発生します。
だから、セッションでは、いきなり言葉を発することはしません。最初壁を感じながら、少しずつ話を聞いていきます。
話を聴いているうちに、少しずつ好奇心が湧いてきて、途中からは自分が聴いているという感覚がなくなっていきます。
そしてセッションの最後の方になると、不思議なことに、いつも壁が消えています。
自分を囲っている器が消えていくと、相手との境界もなくなっていきます。自分を囲っていた境界が消えたとき、自分にこだわった言葉から、「場」から生まれてくる言葉になります。自然にまるーく、あったかくなっていくのです。
そこには、面倒な自分はもういません。
面倒な自分から離れるには、「馴染む」ということが関係しています。
以前、禅は「負けて、参って、任せて、待つ」ことだと師匠から言われました。
まずは、馴染むのを待つこと。
最近は、どの集まりにいっても、最初はほとんど話すこともなく、隅っこにいます。無理せず、ただいることで、自然に身心が開いていき、1時間ほど経ってくると、場の空気に馴染んできます(私の場合、結構時間がかかります)。
ここで大事なのは、いきなり何かをやろうとしないことです。何かをしようとするほど、頭が頑張ってしまうからです。頭が頑張っているときは、言葉が多くなります。こういうときって、話すほど混乱していきがちです。その結果、さらに孤独感を強めてしまうのです。
待つというのは、何もしないということ。ただ、呼吸を感じながら、場に心を開いていくのです。沈黙もオススメです。
言葉が減り始めると、それは馴染んでいる証です。
私のように馴染むのが苦手な人は、何ごともいきなり始めないこと。
禅の修行を続ける中で、坐禅にあたって準備が大事なことを知りました。最近は、朝起きたら身体の細部をさすってあげるようにしています。足の指から、頭のてっぺんまで手で優しく触ってあげることで、身体と心が自分に馴染んでいくのです。
ぜひ、いきなり頑張って馴染もうとするのではなく、馴染んでいく「プロセス」を味わってみてください。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、書きたいことが明確に分からないまま、言葉にし始めました。何を言いたいのだろうと探しながら、浮かんでくる「何か」を言葉にしていきます。
まさに、これは自分がテーマに馴染んでいくプロセスです。
このテーマは、自分に何を書かせたいのだろう。
頑張って書くのではなく、ただテーマと共にいる。
待っていると言葉が減っていき、「自我のコーヒーカップ」は消えています。
そして、あるとき、言葉がやってきます。川からメッセージがどんぶらこと流れてくるときもありますし、風の便りを受け取ることもあります。
できるだけ、やってきたときの状態でお伝えしたいのですが、これが結構、難しいです。
私は良いことはいえません。すごいことも書けません。ただ、生きている体験をいかに裸でレポートするかを大切にしています。これは私の人生のテーマでもあります。
クライアントさんによると、「裸の体験のシェアは、自分の人生にもつながってくる」ということです。
少しでも生きている言葉が伝われば、嬉しいです。
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