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言葉とどう付き合うか 言おうとしないから「本心」が見えてくる

先日、私は2つの体験をしました。

一つは、私が主宰しているある講座で、ずっと私が話していたことです。2時間の中で、私が考えていることを熱く語っていました。ところが、言いたいことを言いたいだけ言ったはずなのに、後から振り返ると、どうにも後味が悪い。肝心なことは何もなかった気がするのです。

どうでもいいことを言っているときほど、言葉は止まらなくなります。もちろん本人は、どうでもいいこととは思っていません。とても重要なことだから一生懸命、言葉にするのです。でも人は、言おうとするほど、本当のことが言えなくなるのです。言葉が増えるほど、どんどん本心から離れていきます。

一方で、別の会では、私は何も話そうとはしていませんでした。「何を言おう?」というモードではなかったのです。自分の中で言葉を探していたのではなく、ただ自分の中に起こっていること、場に起こっていることを感じているだけ。すると、自然に言葉が出てきました。それは、とても自由で伸びやかな言葉でした(どう思われたかは分かりませんが、後味スッキリでした)。



言おうとすることを手放せたとき、本当に言いたいことが顕れてきます。



人は言っている言葉に囚われがちですが、何を言っているかは、実は重要ではありません。

その人がその瞬間、どうあるか?これだけなのです。

ちなみに私は、禅の師匠の前にいると言葉を失います。なにかを言おうとするほど、言葉が出てこなくなります。

これまで、私が何かを言うと、毎回のように師匠に否定されてきました(否定されているように私が感じているだけかもしれませんが、周りの仲間からも「なんで赤野さんのときは、あんなにきつい言い方をするのでしょうね」と同情されるので、私の感じ方で間違っていないように思います)。

それで、これまで否定されてきたことが影響して、否定されないように、言葉を探しているのです。

そうやって、数年が経ちました。ずっと跳ね返され続けてきました。嫌われていると思ったときもありました。

しかし、先日ある気づきがやってきたのです。

それは、師匠の前にいるとき、何を言うかにこだわってきたということ。

嫌われない言葉、すごいと言われる言葉、共感してもらえることを必死に探しているのです。そういうときは大体、言葉はすごく狭く、固く、不自由になります。

何を言っても跳ね返される中で、言い方が悪いのではないかと考えたこともあります。言葉が長いのではないか。もっと受け入れてもらえるように、短く言った方がいいのではないか。

あるいは、分かりにくいのではないか。もっとポイントを絞って話した方がいいのではないか。

しかし、それも見事に跳ね返されました。

何を言うかは問題ではなかったのです。
また、どう言うかも重要ではなかったのです。

言うことなんて、どうでもよかったのです。



いかにあるか。



臨済宗の開祖・臨済義玄禅師は、かつてこう言われました。「仏にあえば仏を殺せ。祖(師)にあえば祖を殺せ」と。言葉だけを聞けば過激に聞こえるかもしれません。人は仏教や師匠の教えを学ぶ中で、正しい教えとして仏を概念化し、仏を語ろうとする。そのとき真実を見る目は曇ります。真実を見る目を持つためには、自分の中の「仏」や「師」を殺す、つまり学んだことをリセットする必要があるのです。

まさに私が師匠の前にいるときの姿でした。「いい弟子であろう」というこだわりの中で何を言っても、それは囚われた自分から生まれる言葉。それを師匠は見抜いていたのでないか。まさに言葉ではなく、身をもって教えてくれていたのではないか。

ただ、「何を言おう」「どう言おう」というモード以外の自分が見つかりませんでした。



マインドフルネスとは、「今起こっていることに気づき続けている」ことです。今起こっている呼吸、感情、思考、身体感覚に気づくというあり方です。

瞑想でマインドフルネスを実践していても、このメルマガで偉そうなことを書いていても、師匠の前では、師匠に心を持っていかれていたのです。それに気づくまでに数年かかりました。

「何を言おうか」というモードではなく、「今何が起こっているか」というモードで流れに身を任せていくのです。そういうとき、自分へのこだわりは薄れていきます。こういうときは、何を言ってもいいのです。何を言っても許せるのです。



少し抽象的になってきたので、ここからは「本心を発する」ことについて、お伝えします。

禅はコミュニケーションにも通じます。禅では「ご縁」を大事にしますが、「ご縁」とは、周りとの関係性です。関係性とは、お互いに常に動き続けているということです。

相手も自分も動いていることに気づけているかがポイントです。



なかなか言葉が出てこないことがあります。

これは発する言葉が問題なのではなく、相手の言葉を受け取るときに、固まっているのです。

相手の言葉を聞いているとき、あなたが動いていることを感じているでしょか。自分が何を言おうかと考えていると、動いていることは感じられません。これは身構えて固まっている状態です。

相手の気持ちや言葉を受け止めながら、自分に何が起こっているかを感じてみます。恐らく、いろいろなことが起こっているでしょう。今起こっていることを感じていると、言葉を考える暇はありません。

「自分の意見を考えたいのに・・・」そこに焦りを覚えるかもしれません。

しかし、ここには「無」ともいえる空間があります。意見を考えないという空間があると、それは柔らかさになります。そして動きを感じている中で、言葉がどこからかやってきます。

あなたが柔らかい状態で発したとき、受けとる方も受けとりやすいものです。柔らかく発しているとき、相手も柔らかく返したくなります。

面白いことに、言葉が上手く出てこない人は、自然をこよなく愛している人が多いです。自然の中にいると、解き放たれた感じがします。本心はそういう状態のときに、やってきます。

その感覚がまさに本心に触れるコミュニケーションです。



言おうとするほど本心から遠ざかる。
言おうとしないと本心がやってくる。



コーチングは言葉を用います。自分を知り、相手を知るには、とても効果的なやり方だと思います。

ただ、コーチングには、言葉で自分を分析しながら言葉遊びになっていくという危険性があります。

言葉に囚われるようになってはいけません。

言葉を用いながら、いかに言葉から自由になっていくか。

風と触れるように言葉を聞きながら、自分も静かに動いている。呼吸を感じながら聞く。身体を感じながら聞く。自分の思考、感情の動きを感じながら聞く。

風を感じるように、関係性でメッセージを受けとっていくのが、プロセスコーチングです。



まずは、「何を言うか」という考えを手放してみましょう。自分の思考から発した言葉では、本心には気づけません。

相手の話を聞きながら、動いている自分の心や身体とともにいるだけ。

少し時間はかかるかもしれませんが、やがて関係性から言葉がやってきます。

そのとき、あなたは「本心」に気づくことになります。




ここまで読んでくださり、ありがとうございました。今回はいかがだったでしょうか?

実は、一度書き終わった後で、ある部分をバッサリ消しました。それは「言おう」としていたからです。

私はまだまだ言葉が多いです。「伝えたい」という思いがあるからですが、言いたいことが多すぎます。これは私の悪い癖です。

一方で、先日ある方から、「赤野さんがいると、場が動いて楽しいです。少々煩わしいと思うときもありますが(笑)」と言われました。動いているとき、言葉は少ないです。

言葉は難しい。でも面白い。

これからも読者のみなさんと一緒に探究していければ、嬉しいです。




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