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一隅を照らす人でありたい 答えを求めない問いとは

今年も藤田一照老師の仏教塾に参加しています。コロナ禍の中で、今回はオンライン開催になりました。運営スタッフの皆さんもはじめての体験で大変だったようですが、地方に住む身としてはまだ東京に行ける状態ではなく、本当にありがたい限りでした。

仏教塾に参加して5年目。毎回、いろいろな気づきがあります。そのときは感動するのですが、案外すぐに忘れてしまっています。

私自身がセミナーをやっているときに、その日に起こる発見や気づきを大事にしてきました。せっかく時間とお金を払って参加いただいた皆さんに「来て良かった」と思っていただけるために、最大の努力を払う。そして参加者からの評価がよければ満足し、悪ければ失敗だとジャッジしていました。

その日に起こる発見や気づきは、短期的な変化です。短期的な変化は目に見えやすいものです。

一方で、塾にこの5年参加する中で、長期的な変化も起こっています。

きっと何かが影響して、今のあり方になっているのだと思うのですが、明確に何が影響したとは言えません。ただ、きっと塾に参加していなければ、このような変化はなかったとも思います。

この「明確には言えない何か」とは、目には見えにくい変化と言えます。

私にとっては、この自然に顕れてくるパラダイムシフトはとても興味深いです。そして、結果的に人生はこういう風になっていくのだと気づかされます。

最近、以下のような疑問が湧いてきました。(独り言モードで書いています)

物への執着はあまりない。しかし、どう生きるかはいつも考えている。(今この瞬間も・・・)

いつも「自分」というテーマがあった。

少しでもよりよく生きようとする努力は、人間性を高める良いことだと思っていた。成長しようとしない人をどこかで下に見ていたかも。

ただ、ひょっとして、よりよく生きるというのは自分への強烈なこだわりであり、執着ではないのだろうか。

変化という手応えをいつも求めていた。自分の人生をよりよく生きる答えを求めていた。

これを知って自分に取り組むのか、知らずに取り組むのかでは、まったく違う気がする。

「よりよく」を外した「生きる」とは。


藤田老師に出会って、分からないことばかりでした。一瞬分かったと手応えを感じても、また分からないことが生まれてきます。最近まで、いろいろな葛藤がありました。

なぜ老師は、私に厳しいのだろう。
私なんかに禅を学ぶ資格がないのだろうか。
嫌われているのではないだろうか。
何を変えればよいのだろう。何が足りないのだろう。
考え方が悪いのだろうか。謙虚さが足りないのだろうか。
どうすれば認めてもらえるのだろう。
この認めてもらいたいというエゴが鏡のように映されているのだろうか。

かなり長い間、自問自答を繰り返してきました。また、答えを求めても、答えをいただけることはありませんでした。

いつしか、分からないまま生きるというあり方が自分の中に生まれていました。ただ、そのときは気づいていません。ただ、答えを出すことを諦めていただけでした。

今年の塾のテーマは「初心の技術」だったのですが、講義の中で藤田老師が「知らないから問いが出ます。禅とは問いを磨くことと言えます。答えを求めるとき、どんな風に問いとして転換できるか。フレッシュな問いを探して下さい。日々の生活の中で、クエスチョンが出てくるあり方を大事に育てていくことが初心の修行といえます。」と語られていた言葉が心に響きました。そして今も残っています。

この言葉に出会ったとき、私が問い続けてきたのは、分からないという世界にいるということだったのだと気づかされました。

答えを出そうとするのではなく、ただ問い続けるというあり方を実践してきたのだと。

「問う」ことを当たり前に出来ていると思っていたのですが、そのとき新しい「問う」というあり方に出会えました。

それは「答えを外した『問う』」です。

これが、よりよくを外した「生きる」ではないか。

誤解がないように申し上げると、これは答えではありません。問いの中で生まれた今この瞬間の出会いにすぎません。しかし、この瞬間、とても柔らかく笑っている自分がいます。

もちろん、日常の生活や仕事において答えを出していくことは大事です。しかし、現代は答えを出すことに偏ってはいまいか。答えをすぐに求めすぎていないか。誰かに答えを出してもらおうとしていないか。

短期的な答えを求める心だけでは、本当の出会いに巡り会うのがなかなか難しい。答えが出ると、その瞬間、安心します。あるいは刺激的な答えにワクワクします。しかし、たちまち色褪せていくのです。

「問う」のは、答えを求めるという方向とは真逆のあり方です。

問い続けるということは、分からない世界に居続けるということです。

答えを出すことが目的ではありません。ただ、問うというあり方で、今ここに存在するということです。

〜したらどうなるだろう?

問うというのはすべてが未知です。未知の世界に向かって、心も身体も開かれています。今この瞬間が好奇心でいっぱいです。そして、その問いは、ご縁という出会いにあなたを導いてくれるのです。

この禅的なアプローチが、あなたが本当に求めている世界へとシフトしていく鍵なのです。少なくとも私のコーチングにおいては・・・

ただ、この分からない世界に飛び込み続けるのは、私のような小心者には、なかなか難しい。いつも足がすくみます。一照さんが照らしてくださっている先人が歩んだ智慧の道、ともに学ぶ塾の仲間達、クライアントさんとのご縁が私の背中を押してくれているように思います。

と感想を述べていたら、禅の仲間が「そうか、一照さんて、『一隅を照らす』人だったんだ!」とフィードバックしてくれました。

「一隅を照らす」というのは天台宗の開祖、比叡山を開かれた最澄さんの言葉です。

正確には「径寸(けいすん)十枚、これ国宝に非ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり」です。

「径寸」とは金銀のことです。「一隅」とは、あなたがいる場所のことです。誰もが気づかないような片隅を照らしているような人こそが真に尊いという教えです。

ちなみに、私は「隅っこ」が好きです。隅に心惹かれるのです。

センターポジションにあこがれた時期もありました。目立つことに目を奪われますし、多くの人の注目を集めている姿をうらやましいなあと思います。真ん中にいる人はまぶしいです。誰も目にとまらない片すみに目を向けていくことが、むしろ難しい。

ただコーチとしてセッションしているときは、いつもクライアントさんの中にある、見えていない目立たない部分に光を当てているように思います。

隅っこに真の才能が眠っているのを本能的に知っているのだと思います。

誰しも輝く人生を送りたい。輝く場所を探します。隅っこはとても地味な場所です。薄暗く目立たない。それは社会の中でも、自分自身の中でも。

問うとは旅です。自分の隅々を旅することで新しいフレッシュな自分に出会えるのです。そのときあなたは輝いています。

どんな場所に生きていても、今どんなに苦しくても、誰もが人生の主人公です。諦めず問い続けてほしい。そんな願いをもって、いつも隅っこで応援しています。

今、私は「よりよくを外した生きるとは」を問うています。

あなたの問いは何でしょうか。


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