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勉強が苦手な方へ 「脱学習」の生き方が輝くとき

私は、大学受験のとき、まったく勉強が手につかなくなりました。勉強しようとしても焦るばかりで、何から手を付ければよいのか分からなかったのです。

勉強したいのに、なぜか勉強に身が入らない。今から32年前ですが、今でもときどき、あのときの苦しさを思い出すことがあります。

今から思えば、「何が分からないかが分からなかった」のです。

勉強が苦手だという人が「分からないことが分からない」と言っているのを聞きます。

この社会では、分からないことはダメとされます。特に学校の勉強では「早く理解できる人」が優秀とされます。最近、社会においても多様性が論じられ始めましたが、依然として優秀さが判断基準になっているのが現状です。

年々、未来を予測するのが難しくなっています。これまでの延長ではない時代がやってきている中で、優秀さだけでは勝ち抜くのは難しくなっています。これからは知識偏重型の勉強では計れない力が必要です。



あるとき、禅の師匠である藤田一照老師が「禅は学習ではありません。脱学習の方向です」とおっしゃっていました。

禅では「分からない」ことが大事とされます。分かった気になっていることを厳しく戒められます。

そもそも「分かる」とは、どういう働きなのでしょうか。

「分かる」は、言葉で理解する働きです。

一方で、「分からない」は、言葉で理解しない働きです。

禅は「概念」でも「哲学」でもありません。禅は体験です。体験から気づくことです。だから、「分からない」という働きを大事にします。



私は最近、水墨画に興味を持っています。

水墨画の様式は、鎌倉時代に禅宗の教えとともに日本に伝わりました。海外では「Zen painting」と呼ばれることもあります。

ある文献を読むと、「水墨画の本質は、知性的な分析を排して生を表現している」とされていました。水墨画の特徴に空白があります。油絵などと比べて、圧倒的に白い空白が多いのです。

藤田老師は「坐禅とは水墨画の空白ではないか」とおっしゃっていました。

私は、次のような体験をしました。水墨画を前にすると、最初は描かれている絵に目がいきます。このとき絵は絵です。

そして、空白に目を移します。空白を味わっていると、心が静かになっていきます。沈黙がおとずれます。

空白とは、絵がない世界。よく分かりません。

分からないまま空白にいると、全体が流れはじめるのです。

絵を理解しようとすると、絵は止まっています。空白にいると全体が流れはじめるというのは、言葉で理解しない働きの一つかもしれません。



私たちは、子供の頃から「言葉にする訓練」を受けてきました。

何かを見れば、言葉で意味を理解しようとします。また、何かを言葉で伝えようとします。

何かを見る時、まずは言葉にできるものを見ます。その結果として、言葉にできないものは無意味と捨てるように訓練されてきたのです。

一方で、空白を味わうのは、「言葉にしない訓練」と言えます。

禅における大事な教えとして「無心」「無我」「無常」があります。

お気づきですか?すべて否定形なのです。

なぜ否定形なのでしょうか?

「無心」「無我」「無常」は「空」を表現しています。直接的に、「空は〇〇」とは表現できないからです。だから、否定形を使うのです。

禅では、「執着しているときは無心ではない」「貪っているときは無心ではない」という表現が使われます。「○○が無心である」とは表現出来ないのです。

「空」や「無心」は、言葉で表現出来る世界の外にあると言ってもいいかもしれません。



否定形をよく使う人がいますが、この社会では、否定的な表現をする人はあまり好かれません。正直、私も人から否定されたくはありません。

ただ、好き嫌いは別にして、「否定」は、そもそも自由に向かう働きを持っています。

「〜ではない」と表現することで、言葉で作られた世界から出ようとしているのではないでしょうか。

では、言葉で「分かる」以外にどう生きればよいのでしょうか。



どのクライアントさんも、私のもとをおとずれたときは、「分かろう」としてきます。自分はなぜ苦しいのか。何が問題なのか。どうすればよいのか。必死で言葉にしようとされるのです。

このとき、表情は固く険しいです。これが言葉で作られた表情です。

クライアントさんとのセッションでは、「分からない」ことを大事にするようにしています。最初は「分からないことが分からない」からスタートします。

何が問題なのか分からない。そもそも問題があるのかも分からない。あえて分かろうとしない。こんな感じでしょうか。

「分からないことが分からなくていい」というのは、人の心を楽にします。また、好奇心が生まれるきっかけになります。

これは、ノージャッジの状態だからです。人はジャッジを加えず自分のことを見られるとき、安心します。

セッションでは、分かろうとはしません。言葉になっていない「空白」をいっしょに体験していきます。沈黙もよくおとずれるのですが、沈黙は無音ですよね。音がない世界も空白です。

最近、セッションは坐禅と似ていると、ふと思うことがあります。セッション中、私は言葉ではなく、無音を聞いているのもかもしれません。

「分からないことが分からない」ことは、勉強では落第生です。言葉で理解できないので、いい点数はとれません。「頭が悪い」ことが傷になっている人もいます。「分からない」とは言いづらい社会です。

これからの時代には「分からないことが分からない」ことが必要ではないでしょうか。

「分からないとは、言葉で理解しない働き」と最初にお伝えしました。

あなたが分からなくなったときは、体験で生きるとき、といえます。「言葉で考えることを止めなさい」というメッセージなのです。

正しい答えを分かろうとするのではなく、あえて「分からない」ことを体験する。「何が分からないのだろう」と問いながら、体験の中で気づいていくという感じでしょうか。



私のもとをおとずれる人達は、皆さんユニークです。学校の勉強は苦手な人が多いかもしれません(笑)

「自分がやりたいことがない」ことで悩んでいるクライアントさんがいました。どれだけ考えても、答えが出ないのです。

本人は、深く考えられない自分をどこかで恥じていました。

これは、言葉で分かろうとしている状態。自分のことが分からないので、苦しさが増します。

しかし、「分からないことが分からない」ままセッションを続けている中で、あることが見えてきました。

実は、頼りにされる人なのだと。

あれこれ考える自分がないのです。だから、相手との壁がない。壁がないから頼みやすい。頼まれたことを一生懸命やる。ただこれだけです。

頼まれごとが、いつしか仕事になっていました。

まさに「無我」ですね。シンプルで豊かな働き方だと思いませんか。



深く考えられないというのは、言葉ではない世界を生きているということ。この方は、いわゆる勉強はできないかもしれませんが、「体験」を生きているのです。だから、常に人生が新しい。

分かろうとする働き、分からないという働き。どちらが良い悪いではありません。絵と余白、言葉と沈黙(無音)、知識と体験、どちらもこの世界を構成する働きです。

「分かること」「分からないこと」

あなたは今、どちらに心惹かれますか?少し問いかけてみてください。



今回も読んでくださり、ありがとうございました。

学生時代、「分からないことが分からない」ことで苦しんだ経験が、今の仕事に活かされているというのは、本当に面白いです。

それが今回の記事で言葉になりました。ここまで30年あまりの年月がかかりましたが、また一つ救われた気がします。

そして今、言葉になったので、また「分からないことが分からない」から始めるのだと思います。分かった気にならないために(笑)

何かに行き詰まったときには、分かろうとせず、ぜひ「分からないことが分からない」と唱えてみてください。

それにどう意味があるかって?

意味がないからやってほしいのです。ぜひ体験してみてくださいね。



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