Kritikに関する覚え書き 一院制論題を例に

①紹介する議論について
 今回紹介する議論は、一院制論題で提出されたKritikの反駁ブリーフです。具体的には、論題との関係も説明しながら、コミュニティにおけるマイノリティの排斥を問題にしたKritikに対するものです。以下は作成の意図を説明するという形でKritikに関して少し考えてみようという趣旨になります。

②問題意識
A.パラダイムの論争について
 ディベートの目的や意義に関して大まかに分けて、①民主主義に資する市民教育、②多様な考えに触れることによる他者への想像力の涵養、③個人や企業の意思決定の訓練、④社会的目的を追求しない単なる競技や趣味、という四つの説明がなされます。(個人的には②の理解が一番近く、②は①とある程度つながっているという感じです。③のような理解には批判的で、④に関しては後述します。)
 では、こうした説明から特定のパラダイムを擁護する議論はどの程度有効でしょうか。①〜③に関しては、政策とKritikのどちらがより教育的効果が高いという主張に根拠がないように思えます。④に関しては、政策決定パラダイムを擁護する議論に接続される傾向にありますが、正直繋がりがよくわかりません。第一に、仮に個人の主観において競技・趣味だとしても、試合内の議論・発話が政治的効果を持ち、ディベーターの思考に影響を与える以上、政治的な影響を問題にするKritikを排除する決定的な議論にはなりません。第二に、競技や趣味だとしても一人でやるわけではない以上、その空間のあり方について問題提起がなされたら試合内でも応答する責任があるように思えます。 
 以上をまとめると、ディベートの目的から特定のパラダイムを擁護するような大上段の議論は決定打にかけ、以下に述べるような論題との関連性などが少なくとも意識される必要があります。

B.論題の性質を考慮した論じ方について
 論題の性質を踏まえて論じる上で効果的な観点は三つほどあると思います。
 第一に、規範的議論と経験的議論のバランスです。もちろんどのような議論をするかはディベーターの裁量に委ねられてはいますが、例えば安楽死論題と最低賃金論題を比較すれば、後者の方が経験的な要素が強い傾向があるということは言いうると思います。例えば、こちら(https://note.com/zeit_geist/n/nff3a8dde229e)の原稿では、最低賃金引き上げは、負担の所在が曖昧になりがちなので、誰が負担を負うのかを客観的に見ることが大切という議論をしました。
 第二に、市民として差し迫った判断が求められる論題か、そうではないかという点です。最低賃金は政治の主要争点になっていますし、今回の一院制に関しても改憲原案が国会に提出されたりしているそうです。こうした論題に関しては、政策という形で論じることが望ましいと言いやすいように思います。(もちろん、だからこそ批判的な視点が必要なのだということも言い得ますが。)逆に、政治改革熱は過ぎたので一院制・首相公選制・道州制などの導入の見通しは当分ないであるとか日米安保終了は少なくとも短期的には起こらないからこそ、批判的な思考が求められているということも言えます。
 第三に、単独で論じやすい論題かそうでないか、という観点があるのではないかと考えています。例えば、解雇規制に関しては、社会保障や教育と切り離して論じるべきではない以上、単独政策についてしか基本的に扱えない政策パラダイムよりKritikの方がふさわしい、といった方向性の議論が可能なのではないかと思います。
 以上、論題との関連性を踏まえた議論についてアイデアを出しましたが、どの論題もいろんな視点があると思うので、議論が煮詰まってくれば、なかなか決着をつけにくいとは思います。(ディベートなので当たり前ですが。)

C.コミュニティのあり方に関するKritikについて
 これについては、①どの立場から、②どのような方法で、③誰の問題ないし責任を問うているのか、という段階で考えるとわかりやすいのではないかと思います。
 ①を問題にしたのが、後掲のスピヴァクの議論(仲正の資料)です。マイノリティについて論じるときには、自分がどのような立場・権力配置のもとに置かれているかを考える必要があります。そしてスピヴァクは、抑圧者を代弁するという行為が抑圧者を誤って表象したり、権力関係を固定化するという問題を孕むものであるということを指摘しました。質疑では、当事者として語っているのか、代弁してるのか、その両方なのか、代弁しているならば自分をどの立場に置いているのか、といった点を確認すると良いと思います。また、ポストコロニアル理論やフェミニズム理論にはマイノリティを論ずる方法に関する膨大な蓄積がありますから、そういったものを参照することが望ましいと思います。

 ②を問題にしたのが、後掲の永井の資料です。共感など情動的手段で議論するのが望ましいのか、という問題提起になります。共感を元にした議論にはマイノリティが社会の中で共感を得にくい人であるということもあって一定の限界があるので、普遍的/理性的な価値に訴えて議論するのが良いという指摘です。とはいえ、1)マイノリティの問題提起における情動的な側面を過小評価しすぎではないか、2)感情-個別-マイノリティを問題にするKritik/理性-普遍-政策ディベートのような二項対立が新たな排除を生んでいるのではないか、という疑問が直ちに浮かびます。したがって、具体的な状況に合わせて適切にクレームをつけた上で議論を展開していく必要があるとは思います。
 似た方向性の議論として、属性に基づく議論がどのようになされるべきかといった観点から作った原稿としてクォータ論題のジェンダー本質主義Kritikに対する対策原稿(https://note.com/zeit_geist/n/n6a6b108dc847)も参照していただけると幸いです。

 ③は、誰のどこに責任があると考えているか及び投票理由との繋がりを質疑等で確認した方が議論が深まるのではないかという指摘です。背景にある思想を批判するKritikなどでも、自分たちの議論のどの箇所にどういう問題があるかを明示させた上で、批判に応答することが必要なのと似たような趣旨です。この際、論題とリンクした投票理由の構成になっているか否かを確認すると良いでしょう。そうした観点からのKritik対策としてクォータ論題の際のもの(https://note.com/zeit_geist/n/n6d3982abbfc0)があります

※JDA一院制での試合内でのKritikに対する具体的な戦略について詳しく書いてあるJDAのパートナーの投稿(https://ameblo.jp/rassy119/entry-12710754215.html)も合わせて参照してくださると幸いです。

③実際に使用した原稿

A.我々の有権者としての政治的能力を高め、また意思決定能力を高めていくうえで、政策ディベートは特に重要です。

JDA理事 安藤 07(https://nade.jp/wp-content/uploads/2020/09/paradigm21.pdf)
ディベートにおいて政策形成パラダイムを採用するメリットは、いくつかあると思いますが、最も大きいものは、政策論題を用いたディベートでは、一番自然な考え方である、ということでしょう。現実世界においても、例えば選挙権・被選挙権年齢を18歳まで引き下げる、といった行為は、国会などでの議論を通じて相応の法律を成立させることにより実行されるでしょう。また、ある政策のメリット・デメリットを分析して、その政策を取るべきかどうか判断する、ということも、日常行われています。(中略)また、このような政策形成的な考え方を学ぶことは、実社会においても役にたちます。政治だけではなく、多くの行為(企業活動や、個人の選択など)が、メリット・デメリットの比較を通して決定されており、様々な意志決定の場面に応用できるでしょう。

B.特に一院制の議論は政策という形で議論すべきです。一院制は実際にホットな政治トピックになっているからです。

国際大 加藤 2021(https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=3726)
ただ、与党がこのまま衆参両院で多数の議席を占める状態が続けば、改憲論が現実味を増し、その際には大きなテーマとして二院制見直しが俎上に上がるだろう。逆に、与党が議席数を減らせば、再び「ねじれ国会」が常態化する可能性があり、その場合も二院制見直し論は再燃するだろう。2017年の総選挙の際には希望の党(当時)が、一院制の導入を政策の柱に据えて維新の会との共闘を図った。この問題は今後も大きな政治争点となり続けるはずだ。

例えば一院制の導入を目指す議員は改憲原案を国会に提出しています。
しんぶん赤旗 2012(https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-04-29/2012042901_02_1.html)
特に、一院制国会実現議員連盟(一院制議連、会長・衛藤征士郎衆院副議長)は27日、国会を一院制とする改憲原案を横路孝弘衆院議長に提出。正式に受理されるかどうかはこれからの協議次第ですが、改憲原案が国会に提出されるのは初めてです。

C.マイノリティを代弁できると考えることは権力関係を固定化するリスクがあり危険です。

金沢大 仲正 2017[仲正昌樹『現代思想の名著30』215頁より、スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』の解説です]
(批判的知の主体である)自分たちが、抑圧されている彼らの状況を(彼らになり替わって)把握していることを自明の理であるかのように振る舞う。「他者」を「表象 represent」することは時として、自らが「他者」を「代表=代理represent」することを含意している。一見、他者により添っているように見える「表象= 代表 = 代理」によって、認識する主体と、認識される客体(=他者)の間の非対称的・一方的な関係が自然なものとして固定化される恐れがある。

共感に基づいてマイノリティの問題を議論するのは危険です。マイノリティは社会の中で共感を得にくい人だからです。

NPO法人アクセプト・インターナショナル 永井 2021(https://www.asahi.com/and/article/20211015/410030231/)
1点目は、理性の錨(いかり)を持つということだ。これまで再三指摘した通り、基本的に共感の問題とは、人々の感情が極めて限定的な範囲のみを照らすスポットライト的な性質を持つことにある。簡単に言うと、スポットライトの光が当たらない人、すなわち他者から共感されにくい人は、支援が必要な状況にあっても社会から取り残されてしまうというわけだ。(中略)この理性の錨は、他者を傷つける機会を減らすことにもつながる。共感の暴走が、他者の攻撃に発展することはままある。ジェノサイドのような圧倒的な暴力しかり、時に人を自死にまで追い込むSNSなどでの容赦のないバッシングや中傷しかり。

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