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制作と迷惑と作品について

先日、富士フイルムが2/5に発表された新製品カメラ「X100V」のプロモーションとして、鈴木達朗氏に発売前の新製品を試供し、鈴木氏が東京の街中を撮影する様子(いわゆるストリートスナップ撮影)を取材した宣伝記事とプロモーションムービーが”炎上”しました。

その後、富士フイルムは当該記事とムービー、自社サイト内での鈴木達朗さん関連記事を全て削除し、2/5深夜中にお詫び文を提示。鈴木達朗さんは声明を公表することなくTwitterを削除しました。鈴木氏のInstagramアカウントは削除されていませんが、2/5以降更新がありません(2/29追加:鈴木氏は2/23日前後からインスタの更新を再開されています)

ムービーで撮影された撮影手法が「許可を得ていないと見られる一般の人に極端に近接し、すれ違いざまにシャッターを切る」という、攻撃的とも受け取れる方法であったことが、多くの閲覧者に直感的な恐怖や嫌悪をもたらしたことは確かでしょう。

極端に近づかれて無言でいきなりカメラを向けられて撮影され、実際に恐怖や嫌悪を感じた方々が「あんな撮影はダメだ」「あんなことやめてしまえ」と思ったり表明することは、写真を制作する側だと自認する自分としても当然のことだと思っています。

私自身も「お前がそういう撮られ方をされたらどう思うか?」という問われたなら、「絶対に嫌だ、そういう撮られ方はされたくない」と答えるでしょう。

しかし、「自分がされたら嫌な思いをするから」「不快だから」「自分の持つ善悪の価値観や常識を適用すると”良くない”ふるまいだから」という理由だけをもって「鈴木氏のような撮影は行ってはいけない」と、街中での写真撮影そのものを即座に断じてしまうこともまた、私は(自分の気持ちとは別に)するべきではないと考えています。

以下に、本件を含めた制作や撮影に対するスタンスをまとめました。

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一概な擁護とか否定とかではなく、趣味として制作活動の隅の隅にいる人間として、

①「他人に迷惑をかけても創作を優先する!」という意見そのものには「他人に迷惑をかける」一点のみを以ってNGは出せない
②しかし、迷惑が掛かった当人が抗議するのは当たり前であるし、抗議や不満を表明された人はその抗議に対して真摯に対応してほしい
③作品が商品や製品として市場に流通し富を産むのであれば、その時代の社会的要請にはあらかじめ対応しておかなければならない

の3つを、私は自分の意見として持っています。

まずは①について。
大袈裟な話ですが、

「ある一定の他人への侵害を通して制作した作品が、人類史上に残るような偉業を為したり、そうでなくても他人の心を強く揺さぶるものを作り上がってしまうことがあり得るか」

と問われたら、どう答えるか。その傑作誕生の可能性は、間違いなく存在するだろう。私はそう考えています。

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エジプトのピラミッドは奴隷の権利を収奪することでなし得た偉業ですし、かつての日本では、朝鮮出兵によって強制的に拉致された陶工を日本の各地に住まわせ、陶磁器を制作させた過去がありました。それらは現代の倫理観からは到底許されない制作経過を辿りながらも、結果として作り上げられた作品自体の持つ芸術性そのものは、過去から現在に至るまで高く評価されています。

他にも、20世紀初頭の画家エゴン・シーレが制作した種々の絵画やデッサンは、現在それらに与えられる美術的価値とは別に、少なくとも当時の倫理観に基づいて(現在でも賛否を呼ぶ内容ではあります)社会から激しい非難を得ました。近年の著名な作家であれば、例えばバルテュスなどの作品もまた、シーレと同様の非難を受ける可能性があるでしょう(2/29追記:バルテュスは2001年に92歳で亡くなったとのご指摘を受けて文言を修正しました)。詳しい方なら同様の例を、数えられないほど沢山挙げることが出来ると思います。

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つまり、好事家や愛好家の偏った世界から眺めた視点である「美術的な観点」「芸術性の発露という観点」から作品に与えられる評価と、美術に関心がない人々も当たり前に含んだ「社会的な観点」から制作行為や作品に与えられる評価が異なることは当然にあるお話ですし、また制作行為に問題があるが作品としてはとても高い美術的価値がある、と判断されることもまた多々あるお話であろうと思います。

ここで重要なのは、美術的な観点も社会的な観点も、どちらもが時代によって様々に変容する、ということです。社会的価値も美術的価値も時代によって移り変わる以上、制作行為自体を、一律にいまの社会的尺度や規範、倫理観だけで一律に禁止すべきではないというのが個人的な意見です。

特にその侵害の程度が明らかな法律違反でない場合にはなおさら、安易に「それはやってはいけない」と断じたり、規制方向への判断を行なってしまうことには慎重であった方が制作の可能性を確保する面では望ましい。

芸術行為であることが何かの免罪符になることはありません。しかし、社会規範を踏み越えることをも覚悟して制作行為に踏み込む者に対して(特に同じく制作を志す自らが)何かを言えることはない、と私は考えています。

そして、②について。
上記①のような傑作誕生の可能性があるため、私は制作行為においても作者が必ず社会的なルールやマナーを遵守しなければならない、とは考えていません。今回のストリートスナップのように、より高みを目指した制作・表現を優先するがために、規範を踏み越える場合は多々あり得るでしょう。

しかし、その場合でも、制作行為に関する直接的な影響、具体的には「お前の制作行為で俺が/私が傷ついた」という状況が現実に発生した場合には、その個別の申し立てから作家が逃れたり、逃れようとすることは許されない。そう思っています。

「これは芸術行為だから侵害をしても良いのだ」ではなく「もしも芸術を優先し他人を傷つけたなら、相手への責は作家自身が背負うしかない」という考えです。その相手への補償(金銭的なものとは限りません)は制作に携わる者が当然負わなければならない。

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街中の見知らぬ人を撮影すること自体は、今のところ直ちに違法とは判断されません。しかし、撮られた人が「私は撮られたくない、恐怖である、不快である、撮らないで欲しい」と申し出た時に、作家はどうあるべきか。

作家はその申し出に向き合わず曖昧に言葉を濁して逃げてしまったり、この撮影は肖像権やら何やらに違反している訳ではない何が悪いのだなどと抗弁して一顧だにしない、侵害された者の痛みを考えないことは、私はあってはならないと考えています。

芸術行為の一環であることは、傷ついた者と傷つけた者の間の関係になんの免責も与えない。踏み付けにして為すものに価値を置くのであれば、踏まれた者に非難され反撃されることは覚悟して臨むべきでしょう。

…とはいえ、これは全くに侵害された者と侵害した者の二者間での直接的な係争です。第三者が口を挟むことではない。この係争に対し、二者に関係のない外野が野次馬のように、自分たちそれぞれ独自の評価軸を当て嵌め、やいのやいの言うことは慎むべきでしょう。

また、これを「相手が直接文句言わなければ良いのだろう」と捉え、威圧や恫喝、暴力によって無理やり制作を強行することで、問題なし!としてしまう場合もあるでしょう。理屈の上でその行為や作品は成立するにせよ、私はそれについて法に基づいて粛々と裁かれるしかない(権力的な制限には抑制的であるべきだ)と思っています。心情的には地獄に落ちろという意見ですが。

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そして③について。
しかし、芸術のために規範を逸脱したこれらの作品が、一般の不特定多数に広く提示され、それが商品として市場に大手を振って流通すること、いろんな場所にドヤ顔で広く出回り、作品がお金を稼ぐプロセスに入り込み、それで生活する人が出る…という事態については、私はそうなるべきではないことだと思っています。

ここはもう半ば信念のようなものに近くなりますが、

(A)「自分や家族、会社のみんなが食べてるご飯が、作家によって踏み付けにされた誰かの苦しみの上に成り立っている」という事態は決して健康的ではない(B)規範を逸脱して作品を作り上げることに実利を与えてはいけない

という考えからです。

具体的には、ストリートスナップの件については、

富士フイルムの方々は、

渋谷で鈴木氏が撮影した一般の人々の恐怖や不快の上に立ったプロダクト(この場合は宣伝記事やプロモーションムービー)を作り、それを用いて収益を上げ、自分や自分たち、家族、子供の生活を支えていくことに対して、胸を張れますか?

他人に恐怖や不快を与えても“強い作品”を作りさえすれば、それが仕事やお金を産み出し、自分が生活したり有名になったり稼いだりするための有効なステップになる、そんなルートの確立に協力するつもりですか?

という問い掛けとなります、そしてこの問いを肯定していくことは、決して健康的なことではないと考えます。

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以上、①から③に分けて自分の考えを記載してきました。まとめると、

・制作者がその芸術性の発露を目的とした制作を行う際になされた社会的なルールやマナーを逸脱した振る舞いに対し、第三者が介入しようとすることはできる限り慎重であるべきでしょう。

・しかし、上記に加えて、作者や関係者が現世の社会的評価・金銭的な利益を得るために広くその制作物を市場流通させたいならばらその制作は商品として、その来歴や手法などについても一般的な社会規範に合致し適応出来るように準備をしておかなければならない。

と集約されます。「芸術のためでもやっちゃだめとは言わないけどやったことの落とし前は自分でつけるべき」という感じでしょうか。

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では、制作に関わる我々(あえて我々と書いておきます)はどうすれば良いのか。

一番良いのは、制作欲求と金銭欲求の完全な分離、芸術性の発露に対する評価と市場の金銭価値を切り離すことです。仕事をライスワークとライフワークに分ける思想が存在するように、いま現在の市場に適合するバランスを取った制作と、自身の制作欲求に忠実な制作とを分けてやる、というのが私達に取り得る現実的な解でしょう。

これらの両立を図る良い方法論としては他にも、ゾーニングを厳密にして外野を排除した、好事家たちのみによる好きモノだけのアンダーグラウンド、という考えもあります。私はかつて存在したアングラという概念はとても都合の良いものだったと思いますし、その領域の存在は悪くないのではないか、とも思います。

とはいえ、現実にはアングラエリアが存在したところで「当事者二者間のトラブルを芸術を言い訳に逃げ回る」問題が多々発生し、社会的な非難を浴びて潰される…という経過が高確率で予想出来ますので、難しいところかなと思います。歴史的には制作者側の甘えによってそういう分野を着々と自滅させていった過去がありますので、自業自得とも言えるでしょう。

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制作自体は本当に好きにすれば良いと思うんですけど、「僕が他人を殴ったときにソイツが叫んだ声でサンプリングした音楽です」みたいなものが発表されたとして、それは芸術とかアート文脈では全然アリだと僕は思うんです。とはいえ、それでお金儲けするのはあかんやろうし、そこで殴られた奴が「俺を殴った音で作った曲を出すのはやめてくれ」って言ってきたらやめるべきだし、もしもし警察です、ってなれば大人しく捕まるべきなんじゃないかな、思ったんです。

後半わりとぐだだとクドめの長文になってしまって恐縮ですが、そういう感じです。では。

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