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20110311

人生で初めて暮らしから明かりが消えたあの夜、炎の綺麗さに慄いた。そんな私が本当の理由を知った時、初めて私は被災者ではなくなった。


2011年3月11日。私は宮城県の県南にいた。
道路は地割れ、信号は動いておらず、家具は倒れ、水道光熱通信などのライフライン、さらには流通も途絶えていた。

そんな夜、窓の外を眺めて見ると、雪が降ってきた。
私が当時居住していた場所では、3月に雪というのは珍しい部類だった。
暖房もないのにと悲観する隙も与えず、はるか向こうに真っ赤に燃えている場所が煌々としていた。
すぐに隣町の工業施設が頭を過った。地震で火災になってしまったのだろう。綺麗ではあったが、より一層恐怖が押し寄せられた。

唯一、外部の情報を知る手段としてラジオがあった。私はそんなラジオを抱きしめて多くの時間を家の中で過ごした。ただラジオから聞こえてくる情報は、ネガティブなものばかりである。そして、余震を知らせる地震速報が延々と鳴り響き続ける。

幸運にも私には家族がいたので、食べ物や飲み物に困ることはなかった。家も無事だったため、避難所での生活もなかった。
どこからか、近くのコンビニが開くとかスーパーが開くという情報や、近くの公民館で水の配布があるという情報を仕入れていた。
お風呂やシャワーは難しかったが、トイレに関しては川の水をトレイのタンクに入れて流していた。そんなことができるのは初めて知った。
多くの人が助けてくれていたおかげで案外なんとかなった。

それから数ヶ月経ち、多くの不便は残るがある程度の日常が戻ってきたある日の事。
ふと、あの燃えている場所はなんだったのか気になって調べてみることにした。
隣町だと思っていたあの火災は、どうやら気仙沼市(宮城県の端)だったらしい。全く隣町ではなく、遠く離れた地であった。津波が原因で広い範囲火災となったようだ。
地震は怖いものであったが、津波はもっともっと怖いものだったのだ。
この時、初めて自分にできたことがもっとあったのではないかと、強く悔いることになった。被災者というものを建前に余裕のないふりをしていた。
被災者であることについては変わりはないかもしれないが、この時から東日本大震災の被災者という自覚はあまりない。

大きめな地震にあった時、ある程度情報を遮断し、心の健全を守るというのは大切なので、覚えておいてほしい。日光も浴びてね。

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