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犬に非ず、人に非ず

 江戸では何人たりとも犬を殺してはならぬのだという。犬以外の生き物はどのように扱っても構わないが、犬だけは傷つければ死罪となる。
 犬公方。
 時の将軍が蔭でそのように噂されるのは当然と言えた。
 「せめて、生類全てを憐れむというのなら、納得はできぬが理屈は通る。だが、なぜ犬だけなのだ?」
 「よせよせ、犬だけでも一苦労なのに、生類全てとなれば、儂らは足の踏み場も無くなるぞ」
 その時である。夜の静寂を破る悲鳴と共に、獰猛な犬の吠え声が響き渡る。
 「御前!」
 老中、青山備中守が皺がかった喉笛を食い千切られ、血塗れで畳に突っ伏している。
 遺骸の前で唸りを上げるのは、大型犬の2倍……いや、3倍はあろうかという怪物じみた巨犬。
 この光景に禁令すら頭から吹き飛んだか、集まった家臣達は一斉に抜刀し犬に斬りかかる。いかに巨犬とはいえ、膾切りにされるのが必定であった。だが、斬れぬ。変哲もない犬の毛皮が刃を通さぬのだ。
 「犬を傷つける者は――」犬が喋る。
 「死を以て贖うべし」犬の牙爪が血に染まる。
 備中守の宅人が一人残らず動かなくなったのは、それから間もなくであった。
 殺戮を終えた巨犬は悠々と邸宅を出ようとする。だが、その足が止まった。
 「流石のお鼻でございます」
 むさ苦しい装束の男が隠れ場所から姿を現した。
 「餌取のロクと申します。八犬士の犬田様とお見受けします」
 「刺客への刺客か」
 「はい、いささかややこしく」
 男は腰をかがめ、刀を構えなかった。代わりに、刀を握った手を後ろに回した。
 「なんだ、それは」
 「獣は刃物を見せれば、輝きを恐れます。故に犬を追う時にはこのようにします」
 「そうか、だが刃は通らぬぞ」
 「いえ、我らの生業は獣の革剥ぎでございます故に」
 
 元禄3年夏、水戸藩藩主光圀は、幕府に隠居願いを申し出ると共に、将軍に大箱一つを贈った。その中に詰められていたのは、一匹の大犬の毛皮であった。
 添え書きには「残八枚」とだけ記されていた。(続く)

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