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渡嘉敷来夢はここで終わりじゃない

日本バスケット界のニュー・スター

2023年6月、東京都千代田区
Bリーグの各タイトルが発表・表彰されるBリーグアワードショー。今年、その祭典の中心にいたのは個人賞6冠を獲得した若干22歳のルーキー、河村勇輝だった……。

誰かとの出会いによって人生が変わることがある。
河村がバスケットボール男子日本代表のヘッドコーチ、トム・ホーバスとの出会いによって変わったことは確かだろう。オフェンス時にどうしてもパスファーストになってしまう河村に、ホーバスはしつこくシュートを狙えと言い続けた。シュートを打たないならば試合で使わないと言い渡し、実際に離れてディフェンスされているときにパスを選択した河村をすぐに交代させたこともあった。そしてホーバスの熱意が河村の意識を変えた。

代表活動を経てBリーグの舞台に戻った河村はまるで別人のようにスコアラーとしての才能を開花させる。今年1月にはキャリアハイの1試合39得点をマークし、天皇杯では圧巻の1試合45得点を叩き出した。終わってみれば、シーズン平均で日本人最多の19.5点、アシストではリーグ最多の平均8.5アシストを記録し、河村はアワードショーで、ルーキーながらレギュラーシーズンMVPに選ばれる。それは日本バスケット界に新たなスターが誕生した瞬間であり、新人賞とMVPのダブル受賞は1995年、日本リーグ時代の長谷川誠以来となる快挙だった……。

そう。このとき、河村同様に高い得点能力を誇ったポイントガード、長谷川のことを思い出した人は多いだろう。だが一方で、今から12年前、Wリーグにおいて女子選手としては史上初となる新人賞とレギュラーシーズンMVPのダブル受賞を達成した選手のことを思い浮かべた人はどれだけいただろう?

その選手の名前は、渡嘉敷来夢らむ
100年に一人の逸材と呼ばれた日本バスケットボール史上最高のタレントのひとりだ。

日本のバスケットを変える少女

繰り返すが、誰かとの出会いによって人生が変わることがある。渡嘉敷の場合、それは桜花学園女子バスケットボール部監督、井上眞一との出会いだった。

2006年某月、埼玉県春日部市
中学からバスケットを始めた渡嘉敷は中学3年生にしてすでに180cmを超える長身で注目を集め、全国のバスケット強豪校から誘いを受けていたが、このときはまだ高校で本格的にバスケットをやろうと決めていたわけではなかった。そんなとき、桜花学園の井上が渡嘉敷の通う春日部市立東中学校にやってきて、彼女に言った。

「君は日本を背負う選手になる」

渡嘉敷はあるインタビューでこう語っている。
井上にこの言葉をかけてもらったとき、彼女は「バスケットボール選手・渡嘉敷来夢になった」のだと。

翌年、桜花学園に入学した渡嘉敷は1年生でありながら試合に出場し、桜花学園はインターハイ、国体、ウィンターカップを制覇して、この年、高校3冠を達成する。
そして高校2年の春、渡嘉敷は史上最年少で日本代表候補に選出される。
バスケットボールを始めてわずか4年の16歳の少女が異例の大抜擢だった。

渡嘉敷の武器は高さとスピードだった。高校入学後、191cmまで伸びた身長と、速攻でチームの先頭を走る脚力。日本バスケット界が待望していた動けるビッグマンとして渡嘉敷にかかる期待は大きかった。

これまで桜花学園で数々の日本代表選手を育ててきた日本女子バスケット界のゴッドファーザーとも言うべき井上は、当時こう語っている。

「渡嘉敷は日本のバスケットを変える選手になる」

そして中学時代は感覚的にプレーしていた渡嘉敷に彼はバスケットの基礎を叩き込んだ。

彼女は高校9冠(3年連続高校3冠)達成には3勝だけ足りなかった。2年秋の国体の準々決勝で、渡嘉敷は高校入学以来初めて公式戦での敗北を喫する。ただし、それ以外のインターハイ、国体、ウィンターカップでは全て優勝をなしとげ、高校3年間で8冠を獲得すると、高校卒業後、彼女はWリーグ連覇中の王者、JXサンフラワーズ(現・ENEOSサンフラワーズ)に入団する。
そしてここで彼女はもう一人の恩師とも言えるコーチに出会う。
NBAでのプレー経験があり、日本リーグでもプレーして5度の得点王に輝く名選手でもあった、トム・ホーバスである。

栄光の10年

渡嘉敷がサンフラワーズに入団した2010年、チームはホーバスをアシスタントコーチとして招聘した。現役時代、203cmの長身ながら40%以上の3ポイント成功率を記録するオールラウンドプレーヤーだったホーバスに対し、サンフラワーズ・ヘッドコーチの内海知秀は渡嘉敷の得点能力、技術面、さらに精神面の強化を託す。こうして将来の日本バスケット界を背負う100年に一人の逸材は、その後日本バスケット史に大きな足跡を残すことになるアメリカ人コーチの手に委ねられることになった。

サンフラワーズ入団後の渡嘉敷の輝かしいキャリアについて、改めて紹介する必要があるだろうか。Wリーグ優勝10回、皇后杯優勝12回、3度のWリーグ・プレーオフMVP、8度のレギュラーシーズンMVP、2度のプレーオフ・ベスト5、8年連続を含む11度のレギュラーシーズン・ベスト5、10年連続を含む12回の皇后杯ベスト5、4度のWリーグ得点王、4度のリバウンド王、10度のブロック王、そして、「WNBA」オールルーキーチーム……。

渡嘉敷は2011年の新人賞・シーズンMVP同時受賞以来、10年以上の長きに渡り、日本女子バスケット界のスターであり続けた。その経歴は「100年に一人の逸材」と呼ばれるに恥じないものだ。

そして、日本代表としても渡嘉敷は期待通りの活躍を見せるようになる。
2013年のアジア選手権、彼女は日本を43年ぶりの優勝に導き、MVPと大会ベスト5に選ばれると、2015年のアジア選手権でも2大会連続のMVPとベスト5を受賞し、日本は連覇を達成する。

2016年のリオ五輪では準々決勝でアメリカ代表に敗れるも、渡嘉敷は平均36.1分の出場で、17得点、6.3リバウンドをマークし日本の8強入りに貢献した。

一方、ホーバスも、2011年および、2014〜2016年に女子日本代表のアシスタントコーチを務め、代表でも渡嘉敷を指導することになる。そして2016年にはサンフラワーズのヘッドコーチに昇格してWリーグのコーチ・オブ・ザ・イヤーに輝くと、2017年に女子日本代表のヘッドコーチに就任する。

こうしてバスケットボール女子日本代表の歴史上、初の外国人ヘッドコーチとなったホーバスは、日本人には逆立ちしても真似できないであろう大胆な目標を掲げる。

「2020年、東京オリンピックでの金メダル」

2010年にサンフラワーズに入団して以来、ホーバスと二人三脚でバスケットボールのキャリアを歩んできた渡嘉敷も、このオリンピック金メダルという目標には驚くばかりで、最初は本気にしていなかったという。

だがホーバスは女子代表のヘッドコーチ就任以降ずっと「目標は金メダル」と言い続け、少しずつ渡嘉敷をはじめとする選手たちの意識を変えていった。

桜花学園の井上眞一、おそらく(これまでも、そしてこれからも)日本バスケット界のあらゆるカテゴリーを通じて、史上最も多くの日本一をNational Championship獲得したコーチであるだろう彼が、10年ほど前に言ったあの言葉……。

「渡嘉敷は日本のバスケットを変える選手になる」

あの井上の予言めいた言葉が、2020年の東京オリンピックでついに実現するのかもしれない……。
世界大会における女子日本代表の最高成績は1975年女子バスケットボール世界選手権の銀メダル。
日本バスケットの歴史を変える大会として、自国開催のオリンピックはこれ以上ない最高の舞台であり、歴史を変えることができる選手が存在するとしたら、「100年に一人の逸材」渡嘉敷来夢を置いて他にいない……。
高まる期待と歴史的偉業への予感を孕みながら、2020年、オリンピックイヤーが幕を開けた。

だが、この後に訪れる二つのわざわいが渡嘉敷の夢、そして井上の夢を打ち砕くことになる。

二つのわざわい

ひとつ目の禍は、新型コロナウィルスと呼ばれる病原体としてやってきた。2020年に世界を襲った未曾有のパンデミックによって、国際オリンピック委員会は、東京オリンピック2020の翌年への延期を決定した。
それだけであれば、あと一年準備期間が伸びたとポジティブにとらえることもできた。だが、もうひとつの禍が、渡嘉敷の右膝の靭帯とともに彼女のオリンピックへの夢を断ち切ってしまう。

2020年12月、東京都渋谷区
国立代々木競技場第二体育館で行われた、皇后杯準々決勝の第1クォーター。相手のシュートブロックに飛んだ渡嘉敷は着地した瞬間、右膝を抱えて倒れ込んだ。
翌日受けた診察の結果は、右膝前十字靭帯断裂。通常復帰までに8ヶ月から10ヶ月を要する大けがだった。

ホーバスは、サンフラワーズのコーチとして再来日してから10年、サンフラワーズと日本代表でともに同じ夢を追ってきた渡嘉敷の東京オリンピック出場をあきらめられなかった。彼はリハビリ中の渡嘉敷をオリンピック代表候補合宿に呼び、第一次合宿から第四次合宿まで代表候補から外すことなく彼女の回復を待った。

最終的に彼女をチームから外すように頼んだのは渡嘉敷自身だった。
2021年5月、強化試合が始まる時期になってもプレーできる状態にまで回復しなかった渡嘉敷は、自分からチームを離れる決断をする。自分がいつまでも候補メンバーに残っていたら、「渡嘉敷はチームに戻るかもしれないし、戻れないかもしれない」という迷いが生まれてしまう。自分がチームにいないと早く決まった方が、その分早くチーム作りができるし、団結力も高められるだろうと考えたのだ。彼女はホーバスのもとへ行き、こう告げた。

「オリンピックはもうあきらめます。今まで合宿に残してくれて、ありがとうございました」

その日、彼女はいつまでも、いつまでも泣き続けたという……。

だが、とめどなく思える涙もいつか止まる。彼女の涙が枯れ果てたとき、渡嘉敷は彼女に寄り添ってくれた人たちに向けて、こう宣言した。

「渡嘉敷来夢はここで終わりじゃない」

このとき彼女の気持ちは、次の目標、2024年のパリ五輪でのメダルへと切り替わった。
2006年に井上がかけた「君は日本を背負う選手になる」という言葉によって誕生した、バスケットボール選手・渡嘉敷来夢。その命はまだ尽きていない。

彼女はもっと強くなれる

「けがをしてよかったとは思わないけれど……」と、渡嘉敷は言う。「けがをしたことで選手としても人としても成長できたし、強くなれたと思う」

彼女が入団した2010年以降、サンフラワーズは毎年Wリーグで優勝してきたが、その記録は2020年、コロナ禍によって途切れた(この年は新型コロナウィルスの影響によりプレーオフが開催されず、優勝チームなしとなった)。さらに、続く2021年と2022年、サンフラワーズは2年連続でWリーグ優勝を逃す。

だが、2021年、プレーオフ・ファイナルでトヨタ自動車に敗れた後も、渡嘉敷は決して下を向かなかった。彼女は表彰台に上がるトヨタ自動車の選手たちの姿を心に刻みつけるように見つめていた。
「悔しさから目を背けないことで、もっと強くなれる」
そう自分に言い聞かせながら……。

2023年4月、東京都調布市
今年のWリーグ・プレーオフ・ファイナルは2年前のファイナルの再戦となった。そしてサンフラワーズは2勝1敗でトヨタ自動車を下し、4年ぶりにWリーグ女王の座を奪還redeemする。プレーオフMVPにはファイナル3試合で平均18得点、12.7リバウンドを記録した渡嘉敷が選ばれた。渡嘉敷は完全に復活した。日本のバスケファンにそう印象づける活躍だった。

世界もまた、けがから復活した日本のスーパースターの動向に注目している。
彼女について「渡嘉敷にはあの巨大なスマイルがあり、それは周囲に伝染していくものでした。それがその後十年の日本女子バスケの方向性を決定づけたと思います」と語るのは、1997年からFIBAの解説を務めているジェフ・テイラーだ。

「渡嘉敷はただの優れたバスケットボール選手ではありません。最終的に振り返ってみたとき、人々は日本を光のあたる場所へ導いてくれる彼女の強いキャラクター、幸せそうhappyなキャラクターを思い出すでしょう。そしてそれが彼女のレガシーになるだろうと私は思います」

そしてテイラーは言う。

「彼女にはまだ時間があります。この物語を完成させるための時間が……」

一年後、パリ五輪が開催されるとき、渡嘉敷は33歳だ。テイラーの言う通り彼女にはまだ時間がある。

夢はまだ終わらない

「渡嘉敷は日本のバスケットを変える選手になる」
当時高校生だった渡嘉敷を見て井上が言った言葉を私たちは覚えている。
その言葉を聞いた時、私たちもまた、彼女が日本のバスケを大きく変える未来を夢見た
その夢はまだ終わらない。
なぜなら、渡嘉敷はまだバスケットボールをプレーし続けているから。
彼女がプレーをやめない限り、私たちの夢も続いていく。

そして、あの大けがを乗り越え、必死に前を向こうとしていた彼女が言った言葉も、私たちは忘れていない。

「渡嘉敷来夢はここで終わりじゃない」


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