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バスケットボールの定理 【第2部】 〜情熱の価値〜

帰ってきた救世主

2001年4月、茨城県つくば市
その男は、母校を救うために帰ってきた。
恩塚亨の所属する筑波大学バスケットボール部は、前年、リーグ戦2部降格という屈辱を味わった。1927年の創部以来、インカレに全大会出場を続けている唯一のチームであり、国立大学で唯一インカレ優勝を果たしている名門筑波大学にとって、それは異例の事態である。
そこでこの年、新たなヘッドコーチを外部から迎え入れることになった。
彼は筑波大(旧東京教育大)のOBであり、かつてキャプテンとしてインカレでチームを率いたことがあり、現在は千葉大で教授職に就き、バスケ部の監督でもあった。
そう、日髙哲朗、その人である。
それは、恩塚が大学4年のときのことだった。

日髙はここでもその手腕を存分に発揮する。
ヘッドコーチ就任1年目にすぐさま1部リーグ復帰を果たすと、翌年には24年ぶりとなる関東1部リーグ優勝をなし遂げたのだ。

日髙は”日髙メソッド”に代表されるようなスキル指導の達人であるだけでなく、海外の最新の戦術をいち早く取り入れ、それをアレンジして自チームにフィットさせる名人でもあった。
さらにアメリカのコーチ学を深く学んでいた日髙は、指導者に大切な要素として「注目、関心、賞賛、激励」の四つをあげる。
選手が上手くプレーできたら賞賛する、できなくても激励する。
日髙は選手を”乗せる”のがうまかった。優れたモチベーターでもあったのだ。

「ロジカルであり、かつ情熱的」
後に恩塚は日髙の指導の印象をそう語っている。
戦術一つ、練習法一つとってもその原理や効果をロジカルに説明してくれて、選手の成長を熱い気持ちでサポートしてくれる。
それは、中学、高校とバスケ部一筋の恩塚が、ずっと受けたいと願ってきた理想の指導を体現しているかのようだった。

「こんな指導者になりたい……」
恩塚は、それまでも漠然と将来はバスケの指導者になるだろうなと考えていた。そんな恩塚に、日髙哲朗というはっきりとした目標が現れたのだった。

解けない魔法

恩塚が日髙に言われた、忘れられない言葉がある。
それは日髙の前で、つい「僕なんて……」と弱気な言葉をもらしてしまったときのことだ。
「どうせ、僕なんて……」
恩塚がつぶやいた瞬間、日髙の表情が変わった。
「若者が自分で自分の可能性を狭めるなんて大嫌いだ!」

その一言が、恩塚の人生を変えた。

日髙はこのときも魔法を使ったのかもしれない。
恩塚は生来引っ込み思案で、人前で喋るのも苦手、選手としても平凡であり、自分に自信を持てない内気な青年だった。
そんな恩塚が変わった。新しく生まれ変わったと言っていいかもしれない。
このとき以来、彼は決して自分の可能性を差し引かず、なりうる最高の自分に向かって歩みを止めなかった。
それは勇気を必要とすることだった。自分の可能性を信じる勇気。自分を信じる勇気……。自分への疑いが湧き、自己不信に陥りそうになるたび、恩塚は日髙の言葉を思い出した。
「若者が自分で自分の可能性を狭めるなんて大嫌いだ!」
この言葉は、その後20年を越える恩塚のコーチ人生において、ずっと色褪せずに彼を支えていくことになる。
それほどまでに日髙の言葉は強力だった。

2002年4月、千葉県千葉市
「日髙先生のような指導者になりたい」
夢に向かって歩き出そうとしていた恩塚のキャリアは、しかしいきなりの挫折から始まった。地元大分で高校教師になろうとして受けた採用試験に落ちてしまったのだ。どうやら恩塚はバスケットに夢中になるあまり、勉強のほうはおろそかになっていたらしい。
だが、捨てる神あればで、筑波大OBのつてを頼りに、なんとか渋谷教育学園幕張高校に教師の職を得ると、そこで女子バスケ部の顧問になる。
県大会にも出場したことがないチームで、選手たちのレベルも決して高くはなかったが、念願の指導者となり、持てる情熱を存分に注ぎ込もうと、若き恩塚は意欲に満ちていた。

実績がなかったとしても

ところで、恩塚の勤める渋谷教育学園幕張高校から車で10分、直線距離にして5キロほどのところに千葉大学西千葉キャンパスがある。そこには教鞭をとる日髙哲朗と大学院に籍を置く鈴木良和がいた。
日髙という共通の師を持つ恩塚と鈴木の間に当時交流があったという記録はない。だが、恩塚が敬愛する日髙への挨拶に千葉大学を訪れる機会はおそらくあったであろうし、他にも市内のどこかで恩塚と鈴木がニアミスしていた可能性は大いにありうる。
しかし、彼らの人生が再び交差するのはまだだいぶ先の話である。

鈴木が立ち上げた"バスケットボールの家庭教師"の活動は、まずホームページ作りから始まった。鈴木自らホームページ作成ソフトをいじり、手作りのサイトで生徒を募集すると、幸先よくすぐに依頼がきた。最初は児童館で開かれるバスケットボールのイベントを手伝ってほしいというものだった。それから少しずつ、自分の子供にバスケを教えて欲しいという保護者からの依頼が増えていった。
ただし、最初から全てが順風満帆であったわけではもちろんない。

鈴木は日髙から学んだバスケット理論と指導のノウハウには十分な自信を持っていた。ただ、彼には実績だけがなかった。そして人が重視するのは実績の方だったのだ。
「あんな若造が金をとって教えるなんて何事だ」
そうネットに書かれたこともあった。
そんなときも、日髙がそっと後押ししてくれた。日髙の力添えでWJBLシャンソン化粧品の練習サポートに参加するなど高いレベルでのバスケットを経験し、鈴木は少しずつ実績を積み上げていった。

2004年某月、某所
それは、鈴木が活動を初めて2年目、何度か個人指導を行なった子供の保護者から食事に誘われたときのことだった。
「コーチ 、私があなたの何にお金を払っているかわかりますか?」
不意に保護者が言った。
「それは、バスケの知識や指導内容にではありません。 私は、あなたのその熱意に、お金を払う価値を感じているんです。うちの子供にこれだけ情熱を注いで、全力で向き合ってくれている姿を見て、 親としてお金を払ってでもまた来てほしいと感じるんです……

鈴木は息がつまる思いだった。
それは、たとえ実績の少ない若者でも、情熱と勤勉ささえ持っていれば、お金をもらいながら活動して成長していけるということを直感した瞬間であり、また、これからどれだけ自分が地位や名声を手にしたとしても、目の前の子供たちに全力で向き合えなくなったら、お金をもらう価値は無くなるのだという戒めの言葉でもあった。

恩塚の情熱

一方、恩塚は、その有り余る情熱の行き場を失くしていた。
バスケ部は、恩塚の熱心な指導が実り初の県大会出場を果たすなど着実に強くなっていった。しかし、その頃から、「バスケをやらせるためにこの学校に入れたわけじゃない」といった苦情を受けるようになった。渋谷教育学園幕張高校は県内でも有数の進学校である。保護者らは大学受験よりもバスケに夢中になっていく我が子に不安を覚えていた。

まだユーロステップという名前がつけられる前、ジノビリステップと呼ばれていた時代に、その最新のステップをバスケの強豪でもない進学校の女子高校生に大汗をかきながら教えている恩塚は、明らかに"浮いている"教師だっただろう。

彼は確かに持てる情熱を全て高校生たちに注いでいた。しかし、鈴木の場合と違って、それを彼女たちの親は望んでいなかったのだ。

だが、恩塚のバスケットボールに対する情熱は少しも失われなかった。
元々少なかったバスケ部の練習時間がさらに削られると、その空いた時間を利用して、彼は名だたる指導者のもとへ通い始める。
金沢総合高校の星澤純一、慶應義塾大の佐々木三男、当時は富士通レッドウェーブにいた中川文一といった名将たちを訪ねて教えを請い、さらに知人の紹介でアメリカにも渡り、3つのNBAチームと4つの名門大学も視察するなど、指導者としての力をじっと蓄えていった。

転機が訪れたのは、教員生活4年目のときだった。
恩塚は渋谷教育学園幕張高校と同じ系列の学校法人が、新たに大学を創設するという話を耳にする。
「チャンスだ」と恩塚は思った。
大学のバスケ部であれば、保護者に遠慮することなく、思う存分、選手たちとバスケに打ち込めるのではないか。
そこで恩塚は、新設の大学にバスケ部を創設したいという企画書を書き、学校法人の副理事に持参した。

周りにその話をすると、「無理だろ」と言われるのが常だった。「スポーツ系でもない単科大学で一体何ができるの?」と言われることもあった。
それが無謀な挑戦であることは恩塚もわかっていた。
そもそも常識的に考えれば、実績も何もない自分に新設のバスケ部を任せるなんてあり得ない。
その”常識”を超えられるものは”情熱”しかないと彼は考えた。
企画書を出した後、よい返事がもらえないと見るや、彼はすぐさま企画書を書き直し始めた。そうやって具体的なビジョンを肉付けしながら何度も企画書を書き直し、恩塚は月に一度のペースで提出し続けた。

2005年12月、某所
やがて恩塚の情熱が実る時がきた。
それは、4回目の企画書を提出したあとだった。
ついに学長から「わかりました。やりましょう」という言葉をかけてもらえた。新設校は医療・看護系の学校で女子生徒が大半になるため、バスケ部も女子バスケ部になることが決まった。

こうして、東京医療保健大学女子バスケットボール部(THCU  Wizards)が誕生した。  

しかし、喜んでばかりはいられなかった。
このとき恩塚は、鈴木と全く同じことを痛感していた。

バスケ部創設が決まり、学長から「ところで、君はどんな実績があるの?」と尋ねられ、「高校のバスケ部を初めて県大会に出場させました」と答えた時の学長のあぜんとした表情が、恩塚の頭から離れなかった。

実績が必要だ。しかも高いレベルでの実績が……。

この思いが、恩塚を次なる行動に駆り立てる。
それこそ、もっとも無謀な挑戦といえるものかもしれなかった。
だが、このときも日髙にかけられた言葉が彼の心を奮い立たせた。
「若者が自分で自分の可能性を狭めるなんて大嫌いだ!」
この魔法にも似た言葉は、かつては想像もしなかった場所へ恩塚を連れて行こうとしていた。
その場所とは、日本バスケットボール界の最高峰、日本代表チームである。

(第3部へ続く)



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