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バスケットボールの功利 〜恩塚亨と鈴木良和〜 【トリスタン文書 第3部より】

『トリスタン文書』の全体が、ボブ・マーリーの”Redemption Song”へのオマージュとして書かれていることは、第1部の冒頭に記した通りです。以下に掲載する章では、再び”Redemption Song”が話題の中心となり、第1部で引用されたパット・サミットの言葉を前提としているので、改めて引用しておきます。

選手がミスを犯したときはいつでも、すぐに引っ込めたいと思うものです。けれど彼らを叱りつけ、取り返すredemptionチャンスを与えずに座らせたりしてはいけません。
ーパット・サミット

また、第3部のどこかで、”Redemption  Song"の以下の一節が引用されるはずで、それも議論の前提となっています。

一緒に歌ってくれないか 自由の歌を
だって俺が歌ってきた歌はすべて
リデンプション・ソングなんだ
ーボブ・マーリー ”Redemption Song”

ついでに第2部の最終章を締めくくったメフィストの台詞も再度載せておきましょう。

真実を求め続けるやつしか、答えにはたどりつけねえんだよ!


バスケットボールの功利 〜恩塚亨と鈴木良和〜

メフィスト 先日の独演会で俺の入場曲に日食なつこの”シリアル”が選ばれたのは、あの曲の語り手の口調が「俺っぽい」という理由からだったようなんだが……。

トリスタン たしかに、”シリアル”のいくつかのラインはあなたの声で脳内再生余裕ですね。

メフィスト ところで、日食もボブ・マーリーのようにリデンプション・ソングを歌っている。

俺たちに標識などない 俺たちに目安などない
俺たちに導きはない 〇も✕もこの手でつけて
間違った日は、立て直すための歌を歌うだけ
ー日食なつこ ”四十路”

トリスタン なるほど。リデンプション・ソングとは”取り返す歌”だというあなたの定義に従えば、その歌もリデンプション・ソングだと言えるでしょうね。

メフィスト ボブ・マーリーは自分の歌すべてがリデンプション・ソングだと言ってるくらいなんだから、どんな定義だって可能だろう。
しかしなあ……、日食の”立て直す歌Redemption Song”も、ボブ・マーリーの”取り返す歌Redemption Song”も、この国には必要ないんじゃないか? どうもそんな気がするよ……。

そもそも、リデンプション・ソングはなんのためにあるんだ?

有名な話だが、「世界価値観調査」(2010~2014)によれば、自分にとって「冒険やリスクを求めることは大切であるか?」という問いに「いいえ」と答えた人の割合は日本人が世界で一番高く、8割を超えているという。

日本人のリスクを避け現状維持を好む国民性は今に始まったことではない。ベネディクトは1946年にこう書いている。

日本人は、失敗すること、また、人から悪く言われたり拒絶されたりすることに対して傷つきやすい。そのため、えてして他人を責めるより自分自身を責めがちである。[……]日本人に特有の倦怠感は、あまりに傷つきやすい国民がかかる病気である。

ルース・ベネディクト『菊と刀』

失敗を恥と考え、失敗を恐れる国民性は、この国の社会においてますます強化される傾向にある。最初に夢を語ったときには応援してくれていた人たちから、失敗を機に見向きもされなくなるなんていうのは珍しくないだろう。この国では、起業家やスポーツ選手は言うに及ばず、製造業だろうが、研究職だろうが、アートやエンタメ業界だろうが、誰もがそういう経験を一度や二度はしたことがあるはずだ。

一方、アメリカではどうか。無限のフロンティアがあると謳われた西部開拓時代より少し前19世紀半ばにトクヴィルはこう書いている。

合衆国では、財産がいとも簡単に消滅してはまた復活する。国土は果てしなく、資源は無尽蔵である。[……]いつも周囲には自分の獲得しうる以上の富がある。このような国民にあって怖れるべきことはすぐに立て直せる少数の人々の破滅ではなく、万人の活動停止と無気力である。[……]商業における無謀を一種の徳と考えるアメリカ人は、いかなる場合にも、無謀な人間を咎めるはずがない。
このため、合衆国では、破産した商人は異様に寛大に遇される。商人の名誉はこれしきの波乱では少しも傷つかない。

アレクシ・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』

アメリカ人は、失敗したら立て直せばいいと考える。失敗によって名誉が傷つくことはない。失敗した人間をすぐさまコートから退場させ、彼らの活動を停めて気力を削ぐようなことはしない。

トリスタン 「アメリカ人は、いかなる場合にも、無謀な人間を咎めるはずがない」というのは豪快でいいですね。気に入りました。それで言うと、一見無謀に思える目標に挑戦し続けて、失敗しては立て直しを繰り返している恩塚コーチや鈴木良和コーチは、アメリカ人に近い精神性を持っていると言えるかもしれませんね。

メフィスト そう。たしかに彼らはアメリカ人っぽい。『バスケットボールの定理』では、「日本では珍しく、一流選手から指導者というパターンではなく、米国式のキャリアを積んでいる」という恩塚の評価が紹介されていたが、恩塚は決して順風満帆にエリート街道を歩んできたわけではない。つねに成功者であったわけではない。高校バスケ部の顧問時代、日本代表のアナリスト時代、大学バスケ部の監督時代、そのつど彼は何度も”間違って”きた。彼のインタビュー記事を読むと、恩塚は過去の自分の間違いを実に率直に認めている。そして間違いに気づいた時、彼は立ち止まらず、逃げずに前に進み続けた。その試行錯誤のトライ・アンド・エラー結果、彼は彼以外には歩んだことのない、独自の道を切り拓いてきた。鈴木もそうだ。鈴木のようなキャリアの築き方をした者は彼の前には誰もいない。
道なき荒野を行くわけだから、当然進む方向を間違うこともある。それでも彼らは前に進んだ。キングはこう言っている……。

トリスタン 飛べないなら走って、走れないなら歩いて、歩けないなら這ってでも前に進み続けろ。

メフィスト それはキング牧師な。俺が考えていたのはキング・ジェームズの方だ。彼は常に成功できるわけではないが失敗を恐れるなと言っている。

失敗を恐れてはいけない。それが成功する唯一の道だ。いつも成功するわけではない。それはわかっている。
ーレブロン・ジェームズ

あのバスケットの王様も多くの失敗をしてきたが、だからこそ今の成功があると語る。いくつもの間違いを経て、彼らは今の答えにたどり着いたんだ。

リデンプション・ソングは失敗した人のためにあり、間違った人のためにある。決して間違わない、失敗などしないという人にはそれらの歌は必要ないし、最初から挑戦を放棄している人にも当然無用だ。

それと余談だが、同様のことは「励まし(エール)」についても言えるだろう。”彼”がいろんな場所で何度も強調しているように『定理』は日本代表へのエールとして書かれているが、それが書き始められたのは、昨年のW杯での手痛い失敗があったからだ。もし、W杯で代表チームが好成績を収めていたら、おそらくあの文章は書かれていない。勝者にはあんなに長々としたエールは必要ないだろう。ただ「おめでとう」という祝福の言葉があれば十分だ。

『定理』には、恩塚や鈴木のように選手として一流のキャリアがない者が日本代表のコーチになることは彼ら以前にはありえなかったとすでに書かれているが、そのことは、この後も繰り返し触れられることになるだろう。それはいくら強調してもしすぎることはない。なぜなら、いま恩塚や鈴木の背中を追って彼らが歩んできた道をたどる若いコーチたちが続々と生まれているが、彼ら新しい世代が歩んでいるルートは恩塚や鈴木が切り拓かなければ存在していないからだ。恩塚や鈴木が失敗を恐れ、リスクを取らずに現状維持の足踏みを続けていたら、彼らの後に続く若者たちは現れなかった。

日食の”四十路”は、道を切り拓く者トレイルブレイザーズへの賛歌でもある。

俺たちに道はない 草を分け足跡を付けて
100年もすりゃ それもただ青い風になるだけ
ー日食なつこ ”四十路”

この歌の語り手は、日本人には珍しい(2割にも満たない)開拓者の精神フロンティア・スピリットを持っている。「〇も✕もこの手で」つけると語る彼は、他人の評価に対して傷つきやすく、失敗/間違いへの恐怖から未開地を前に二の足を踏みがちな日本人の国民性とは対照的に見える。
しかし一方で、大瀧詠一が日本人は「歴史がキライだからね」と言うように、歴史への視座を欠いているという点で、この語り手は実は日本人的であるとも言える。トクヴィルが書いたように、彼にとって世代間の絆は断絶しているように見える。

他方、恩塚や鈴木は、こっちの四十路たちは、先行世代への敬意を忘れず、「俺たちに導きはない」などとは決して言わない。自分たちが切り拓いてきた道を100年たっても風化させないように、後の世代のことを考えている。

”彼”が、『バスケットボールの定理』を書き始めたのは、そこに「語るべき物語がある」と思ったのは、恩塚と鈴木の二人が口を揃えて恩師である日髙哲朗への感謝と敬意を述べていたからだ。日髙がいなければ今の自分はないと、異口同音に語っていたからだ。そうでなければ、彼が8回に分けて書き継いでいる、あの長い物語は生まれなかった。
「インカレで5連覇達成? すごいすごい」
「誰もやったことがない事業でベンチャーを立ち上げた? すごいすごい」
それで終わっていた話だ。
ただそれだけの話であれば、あれほどの時間と労力をかけて彼らの物語を書こうとは思わなかっただろう……。

恩塚や鈴木がアメリカ人っぽいのはなぜか?
”彼”ならばこう言うだろう。それは、彼らがバスケットをしてきたからじゃないか?

彼は、この三部作を書きながらずっと、アメリカにあって我々に足りないものは何かを考えてきた。トクヴィルのアメリカ人論やベネディクトの日本人論を読みながら、絶えず考え続けてきた。なぜ我々は失敗に対してこんなにも不寛容なのか? なぜ我々は歴史を語り継ごうとせず、いとも容易く忘却してしまうのか? そんな彼ならば、きっとこう考えるはずだ。
恩塚や鈴木が、日本人にしては珍しく、失敗を恐れずに挑戦するマインドや自分を歴史の中に位置付け、先行世代から後続世代への橋渡しとなる意識を持ち得ているのは、バスケットボールのおかげなんじゃないか。文字通り、彼らはバスケットボールに多くの恩恵を負っているんじゃないだろうか。
アメリカで生まれたバスケットボールという競技をプレーしながら、マジックやバードやジョーダン、あるいはウッデンやコーチKなど、アメリカの偉大なバスケット人を見て、彼らの言葉に触れてきたからこそ、今の恩塚や鈴木があるんじゃないだろうか。

先行世代への感謝と敬意、その遺産を後続世代へ引き継ぐ義務。アメリカのバスケット人は、誰もがそれを明確に語る。
アメリカに偉大なバスケット選手やコーチはたくさんいるから(前の独演会ではキャンディス・パーカーの言葉を引用したように)、誰の言葉を引用してもいいんだが、たとえば、みんな大好きコービー・ブライアント。彼は自分の背番号を永久欠番とする記念式典でこう語った。

この式典はあそこに吊るされている私のユニフォームのためのものではありません。以前からそこに吊るされているユニフォームのためのものです。彼らがいなければ、私はいまここにいません。[……]そしてまた次の世代、現役選手たちのためのものでもあります。あそこにあるユニフォームに宿る精神を受け継ぎ、このチームを前に進めることで、この後の20年は過去20年よりも、よりよいものになるでしょう。

また、その日の記者会見で、彼はこう言っている。

これらすべての偉大な選手たちのプレーを見て、そこから多くを学びながら成長してきた私にとって、いまその壁の一部となったことは何物にも代えがたい。遺産は本当に重要です。それは、私たちが成し遂げたことが素晴らしいものだということを意味しています。けれど、より重要なのはその遺産が後の世代にどのような影響を与えるかということです。

勝手な想像でしかないが、コービーと同世代(1歳違い)の恩塚や鈴木も、コービーが見てきたのと同じ偉大な選手たちのプレーを見て、そこから多くを学びながら成長してきたのではないか。だから彼らは、アメリカと日本と住む場所は違っても、ほぼ同じことを語るのではないだろうか。それは彼らが、日本人もアメリカ人もない、同じバスケット人だからだと考えることはできないか?

さらに、コービーの引退スピーチの言葉を聞いてみよう。
NBAで5回のファイナル優勝を勝ちとった彼は、現役最後の試合の後で会場を埋め尽くすファンに向かってこう言った。

私は優勝したシーズンよりも失敗したシーズンの方をより誇りに思っています。なぜなら、そのとき私たちは逃げなかったからです。すべてから逃げずにプレーしつづけた。だからその後に優勝できた。私たちは間違わなかっWe did it the right wayた。いま私ができるのはみなさんに感謝することだけです。みなさんの長年のサポートに感謝します……。

俺が何を言いたいのか、わかるだろう? 俺はいま、新しい何かに挑戦しようとしている、まだ若く無名の誰かに向けて語りかけている。

〇も✕もこの手でつけて……

コービーだけじゃない。偉大なバスケット人は皆、そうやってきた。

間違った日は、立て直すための歌を歌うだけ……

失敗しても前に進む。

間違わなかった日に辿り着くまで歌うだけ


リデンプション・ソングはそのためにあるんだ。


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