見出し画像

メイキング・オブ・バスケットボールの定理 (下)

もしこれを黙認するならば、次は子供たちの番だ
ーニッキー・ワイアー(マニック・ストリート・プリーチャーズ)

みんな何かに熱狂しすぎて、眠る時間も、他人を知るための時間もないんだ
ー山嵜廣和(toe)

第2部 物語の力について


「……それで彼らの物語を語り始めたのか?」

なんの資格も持たない私は、ただ勝手に文章を書くことしかできない。なんの後ろだてもなく、テキスト投稿サイトの個人アカウントにひっそりとアップしただけの文章が、彼ら/彼女らに届くものかはわからなかった。

けれども、ただ黙って何もしないよりはましだ。あなたたちの挑戦は決して無価値なものではないという声を、そう感じている人間が少なくとも一人ここにいるという声をあげることには意味があると思った。それは恩塚や鈴木、ウィザーズや日本代表の選手たちへの私なりのエールだった。

「くだらんね。エールならエールとして励ましの言葉を書けばよい。あんなに長々とくだらない物語を書く必要はない」

「恩塚や鈴木や日髙の物語を語ったところでなんになる? おまえはただ集めてきた情報を取捨選択し、並べる順番を入れ替え、とある情報を強調するといった操作をしているにすぎない。それも、ただおまえひとりの主観に基づいてだ。そんなものに価値があるだと? 思い上がりもいい加減に……」

黙れ!

あなたは本当に物語を読んだことがあるのか?

ただ彼らの情報がほしいだけならば、もちろん私の文章を読む必要はない。探そうと思えば、それはいくらでもネット上にすでにある*。
彼ら自身が直接、彼ら自身について語っている。彼らのことを知りたければ、それらの文章を読み、話を聞けばいいだけだ。かつての私がしたみたいに……。

物語の価値はそこにある情報によって生まれるのではない。

物語は、そこに描かれている誰かと自分を同一視させ、読む者を彼に共感させる
そのとき人は物語の中の「彼の苦しみをまさに彼の苦しみとして感じ」、彼の怒りを彼の怒りとして感じ、彼と”まったく同じ涙”をこぼす。

そしてときに、その感情は人を動かす。

それが物語の力だ。
それが言葉の力だ。

W杯へ向かう女子日本代表に、ただ「あきらめるな」というエールを送るだけならば、私はなにも、あんなに長い物語を書く必要はなかった。その通りだ。

私は、私ひとりだけでなく、日本中のバスケファンとともに彼ら/彼女らの夢を支えたいと思った。
だから、森田菜奈枝の物語を必要としたんだ。


そして私は、私の連載を読み、恩塚や鈴木、ウィザーズや日本代表選手たちの勇気に共感した誰かが、彼ら/彼女らと”同じ勇気”を持つことを願った。
彼らの理念に共感し、彼らと同じ感情に突き動かされた誰かが、彼らとともに世界を変えてくれることを願った。

繰り返すが、物語の価値はそこにある情報によって決まるのではない。

私が書いた物語の中には、私の気付かない間違いや事実誤認があるかもしれないし、ショーペンハウアーは、実は”そんなことは言っていない”のかもしれない。専門家から見れば私のショーペンハウアーの理解は間違っている可能性もありうる。だが、私は論文を書いているんじゃないんだ。

私の文章を読んだ誰かが、勇気を持って「一歩前へ!」足を踏み出してくれたら……。むしろそれができないのであれば、私の文章は価値がないと言ったほうがいい。

*恩塚は、バスケットボール女子日本代表は何をしようとしているのか? 私なりに精一杯情報をかき集め、考え続けてきたが、それはすべてネットの情報に頼ってのものである。
第2部において、「日髙という共通の師を持つ恩塚と鈴木の間に当時交流があったという記録はない」と書いたが、それはネットで検索してもそうした記述が見つからなかったということであり、私の情報収集能力の限界を示す言葉でもあった。

「……言いたいことはそれだけか?」

いや。さらに付け加えるならば、共感の原理は、いくら論理的に説得しようとしても、その意見に耳を傾けようとしない相手、自分と意見の違う者たち、スピノザの言う”野心”的な人々とのコミュニケーションの通路を開く。私たちの敵でさえも、物語の力を借りれば、恩塚に共感することがありうるのだ……。

彼に向けられた悪意に対し、悪意を返すのではなく、私は彼の物語を語り始めた。悪意の連鎖から人を解放することはかなわないにしても、そっちの方が子供たちから見えるこの世界も少しはマシに見えるだろう……。

「……言いたいことは……」

ちょっと待て。この際だから言ってしまおう。
いまや私の敵は恩塚へ悪意を向ける者たちだけではない。
私にこの原稿を書かせている怒りは、彼らへの怒りだけではない。

それは、悪意を持った言葉を使うすべての人たちへの怒りだ。
誰かを傷つけるために言葉を使うすべての人たちへの怒りだ。

言葉はどうとでも使うことができる。私もやろうと思えば人を傷つけるために言葉を使える。私が恩塚を傷つけるために言葉を使うことだってできるのだ。
これまでに読んできた無数の彼の記事やインタビュー、そこから彼の矛盾を暴き、欠点をあぶり出し、わずかにでも疵(きず)が見えようものなら徹底的に攻撃する。誰でも、誰にでも、そのように言葉を使うことは可能だ。

実際、そうやって言葉を使う人たちがいる。
そして、ナショナルチームの代表監督・代表選手や言論人、あるいは芸能人には何を言っても許される。彼ら/彼女らは何を言われようがそれを甘んじて受けよ。その覚悟がないのであれば、代表チームになど入るな、文章など書くな、メディアになど出るなと言う人たちがいる。

つまるところ、「世界にはどんな言葉を投げつけられても文句を言えない人々が存在する」と主張する人たちがいる。それはスポーツ選手だったり、アイドルだったり、政治家だったり、犯罪者だったりする。
たしかに彼らは言葉ではそう言っている。けれど、本当にそう思っているのか? その言葉は暴言を吐いてしまった自分に対する自己弁護のために使われているだけではないのか? 彼らが攻撃している人たち一人ひとりの物語を知っても、それでもまだ……同じ言葉が言えるのかよ、どあほうが!!!*

*余談だがそういう意味では、私はいつか誰かが、いま異国の地で選手として新たな挑戦を始めた”彼女”の物語を書くべきだと思っている(誰か『ヤニス』みたいな本を書いてくれないだろうか)。そして願わくは、その誰かは”メンタルが弱い人”であってほしい。その方が、自分で自分のことを「豆腐メンタル」と言ってしまう彼女に、より共感できるはずだから……。
SNSで他人を誹謗中傷する人たちは決して黙ってくれない。決して放っておいてくれない。もう心が麻痺するくらい慣れた。ただ、子供たちが同じ思いをしないために。と彼女は言う。
もしこれを黙認するならば、次は子供たちの番だ。


「……なるほど。”その言葉”が、眠りかけていたむく犬を再び揺り起したというわけか」

私はその言葉を無視できなかった。なぜなら、それに対する怒りが、私が恩塚の物語を書き始めた原動力であったからだ。そして、いまや私の怒りは恩塚に共感することで生じた怒りではなく、正真正銘、私自身の怒りになった。
その新たな怒りに駆動されて、私は新しい物語を語り始めた。

それは私の物語だ。

この”何者でもない”私が、どうしてあの連載を始められたのかという物語。

「彼や彼女たちの掲げる理想や試合での姿、その言動によってひとりの人間がいかにして変わったのかという物語」

さらに世の嘲笑を恐れずに言えば、取るに足らない卑小な例でしかないが、恩塚さんの始めたことが決して無価値なものではないということを実証する物語だ。

「本当は、彼らの物語を書き上げるまでは自分自身の話をするつもりはなかった。自分がその資格をまったく持たない人間であると明かすことで、それ以降、彼らの物語が書けなくなってしまうことを恐れた……」

いったいなんの資格があって私は彼らの物語を書くのか。私はずっとその”資格”にこだわって書くことをあきらめていた。W杯での彼女たちの姿が、私にその一線を踏み越えさせた。彼女たちにエールを届けたいという思いが、私の逡巡を打ち破った。

けれども常に自分は分不相応なことをしているという引け目は拭いきれず、文章をアップしたらツイッターで「#AkatsukiJapan」のハッシュタグをつけ、ささやかに告知する程度のことしかできなかった。それでも見つける人は私の文章を見つけるだろう。そうして、しかるべき人に届けばいいと思っていた。

最初はほとんど人に気づかれていなかった連載が、第3部を投稿してしばらくたったあとくらいから(具体的にはツイッターでの突然の連続RTをきっかけにして)、徐々に読者の数が増え始め、現在では少なくとも数百人の読者には届いているようだった。物語の形をとることが奏功したのか、熱心なバスケファン以外にも読まれているようだったし、私のことをバスケに詳しい玄人だと誤解する読者も出てきた……。

けれど、もういい……。いくら恩塚や鈴木や選手たちに共感しようと、読者から身に余る期待を寄せられようと、結局のところ私にその資格はなかったのだ。
いずれ近い将来、私はそのことを正直に認め、これまでなんの資格も持たないまま彼らを”批評”してきたことの許しを請わねばならなかった。その時が当初の予定より少し早まったというだけだ……。

「そうだ。恩塚や鈴木の評伝もどきを書いただけで、お前自身ひとかどの人物になったつもりでいたのかもしれないが、お前はこの世界ではなんの権威もなんの力も持たない”何者でもない”存在、ネットの片隅でたかだか数百人を相手に文章を書いているだけの存在にすぎない」

「あの有名な悪魔も言っていたじゃないか。『1メートルもある高下駄を履いても、お前がお前であることに変わりはない』と……」

……。

「たしか、メンフィスグリズリースとかいう名前の……」

……?

「ほら、メンフィスなんとかみたいなやつだよ……」

……?!

「メフィストフェレスだろうが! ツッコめよ。わかりにくかったか?」

……?!!

「どうした……?」

……そう。私が私であることに変わりはない。私はずっと私のまま、ひとりでここにいた。では、あなたはいったい誰だ……?

「知りたいなら教えてやろう。私はつねに否定してやまぬ霊だ!

メ……メフィスト?!

「……なわけないだろう。冗談だ」

……(でしょうね……)。

「……俺が何者か、お前はとっくに気づいているはずだ。お前のやることなすことに疑いを差し挟み、お前のことをまったく信用せず、お前の価値を徹底的に貶めようとする。そんなやつはこの世にひとりしかいない……」

……そうか。

「……」

……。

「……」

また私を否定しよう。自分の言葉に疑いを持たせよう。私の弱った心に入り込み、踏み出すべきかためらう足を引き止めようと、待ち構えているな……?

だが、最後にあえて言おう。

たとえ私の語る物語がここで途切れようと、誰も物語の力は否定できない!

物語は、それが持つ共感の力は、ネットの海のあちらこちらで私たちが日々経験している、誹謗中傷、脊椎反射的反応の応酬、マウントの取り合いといった悪意のコミュニケーション、多くの人々が耐え難いと感じている荒波から私たちを救う希望の船だと、私は信じる!

「また勘違いが……」始まったって? いいだろう。
それを無学な馬鹿の勘違いだと笑いたければ笑え。
私が書く文章を無価値なものと切り捨てるのも構わない。

だが、物語などくだらない、ほしいのは有用な情報だけだと言う者は、
黙って私の前から立ち去れ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?