「なぜ人は生成AIに学習されることに嫌悪感を抱くのか言語化してみる」を自分なりに考察してみる。

https://note.com/light_quoll6260/n/ncf26f60e643f?sub_rt=share_b

上記のリツさんが面白そうなことを考察していたので、
私も考えてみました。

まず1つ目。

「AIに依る学習は泥棒だ。」と言われる訳と、
「泥棒ではない。実際、あなたは何も失ってないでしょう。」
と返される事について

この件に納得が出来ないのは、「貴方は何も失っていない」という点。
これは言う側の詭弁の様な気がするけど、考えてみる。

絵というものは「メッセージ」であり、絵には伝えたいことが込められ、
そのまま「形」になっている。
今の時代、絵と言えばデータで扱うことが多く、
その多くがインターネット上にある。
データである以上複製はしやすい。だから作者の元に描いた物は残る。
これが盗んだことをぼかしやすくしているのではないか。

確実に「描いてある物」はデータとしてAIに抜き取られている。
これが泥棒と比喩される所以ではないか。

「失っていないのだから泥棒ではなくない?」
という話が来そうなので先に書いておく。
絵は「絵そのもの」としても存在するが、
「絵に描かれている情報」こそが、絵の伝えたいもの、本質なのだと思う。
その情報がコピーされていることを指して、「盗んだ」と言っている。


そして2つ目。

「学習はいけなことである。許可がない学習は普通に止めてほしい。」
「お前らも、他人の絵を模倣し学習して練習してきたではないか。」
という返しに対して、うまく言語化して反論出来ない場合について


機械に取り込まれることは、データとして扱われるということである。
そして人間が学習するということは、描いてみたらわかると思うが、
一朝一夕に出来るようなものではない。

目に映る、簡単に描いてあるように見えるそれが、
自分では描けないということが往々にしてある。

これは描いてある情報に気がついていない、
目から入る情報に気がつけていない状態であると言える。
だから描けない。
気が付けないと言うのは無意識であり、
また目から入る情報も無意識に処理している。
だから何が描けてないのかも意識的に気がつけない。

この事に気がつくためには、まず実物などを参考にし、
自分なりに何かに気がつく必要があります。
「近道とされる回り道」が必要なのです。
絵を描いている人には合点がいくことだと思います。

此処に機械と人の差があると思います。

人が絵を学ぶ時、新しく何かを描こうとするなら、
その土台がなければまともに描くことが出来ません。
そしてその土台には人それぞれの気付きがあり、方法があり、
理解の仕方があります。
此処に差がある。

もし機械と同じだと言えるなら、実際にやってみて欲しい。
同じ様には出来ないだろうから。

どんな物事でも実際にやるまでは分からないものだと思います。
もし分かる・出来る人間がいたとしても、
そういった人は極稀だと思います。

多くの人は初めて経験をすることは分からないし、失敗もする。
事前に説明を受けていても、
実際に作業するときには「飛んでいる」ということもある。

同じ物事に向かいつつも、考えること、
注意することは人それぞれ違うものであり、
それは自分と他者が違う存在だからです。
得意不得意が違うのです。

だから同じものを描いていたとしても、その捉え方が違う。
描き方が違う。考え方が違う。
だから人それぞれ差がある物が出来る。

しかし、機械にはこれがない。
模倣を超え、コピーに他ならないからです。

機械に学習されることがどんなことだか分からなければ想像してください。
貴方自身の声が、他の人に心地いい物だったとして。
それをAIにコピーされ、自分の知らない所で販売されている。
これに納得出来る人っているんでしょうか。
これを盗まれたと感じない人居ますか?

無断でAIに取り込み、
データとして扱うことは「他者を軽く見ている」と思います。
舐めています。
AIでその人の制作物、もしくはその人のある部分をコピーすることは
私は人権侵害だと思っています。
それはその人が生きてきた証を奪う物だからです。

もしAIで何かを作り販売したいのであれば、
自分自身の物を売ってください。
取り込んでください。自分のコピーを作ってみてください。
「そんなもん気持ち悪い」って思うんじゃないでしょうか。
それを他人にやっているのが、無断でAIに取り込む人たちです。

もう一度考えて見てください。
自分が何をやっているのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?