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散歩と雑学と読書ノート


千歳川


春をつげる庭のふきのとう(3月15日撮影)

読書ノート

「ヤーコブソン レヴィ=ストロース
 往復書簡 1942ー1982」

 E・ロワイエ/P・マニグリエ編、みすず書房、2023





ロマン・ヤーコブソン選集Ⅰ(大修館書店)より
ロマン・ヤーコブソン(1896ー1982)



世界の名著59(中央公論社)より
レヴィ=ストロース(1908ー2009)

本書は20世紀の偉大な言語学者ロマーン・ヤーコブソンと偉大な人類学者クロード・レヴィ=ストロースが1942年にニューヨークで出会い、1982にヤーコブソンが亡くなるまでの間に交わした書簡群を始めて編み、2018年に公刊された著書の邦訳である。
ネット環境のゆきわたった現在では、メールなどで情報は瞬時に伝えられてしまうが、書簡という形式での二人の交流は何とも奥深い味わいに満ちている。私は本書を読んで、人間の交流には時には適度な時間的、空間的な距離が必要ではないかと考えさせられた。

本書の初めに編集者による優れた序文がおかれ、巻末に八つの付録が配置されている。

付録1は、二人の連名で書かれた記念すべき論文、『シャルル・ボードレールの「猫たち」』である。この詩論のきっかけを作ったのは、1960年11月16日付でレヴィ=ストロースがヤーコブソンにあてた書簡で、「猫たち」とネルヴァルの詩に関して述べた試論である。それは本書の中ほど(224頁)に配されている。

ヤーコブソンはさっそく、12月6日に返信を送り、ボードレールの「猫たち」というソネット(14行詩)とレヴィ=ストロースの解釈に興味を示して、二人でこの詩の構造に関する試論を執筆して、自分の著書に掲載することを提案している。彼はまたこの詩を形態論的単位や、統語論的単位や、音韻論的単位に分解する作業をしてレジュメを数日中に送る約束をした。

その後の書簡にはこの「猫たち」の詩論をめぐってのやりとりが多数みられている。

本書に収められている、レヴィ=ストロースの最後の書簡は、1982年2月28日付のものである。
それは次のように書き始められている。
  
 親愛なるロマーン
 Selected  Writing 第3巻を早速発送していただき、感謝いたします。この巻は、私にとって特別大事なものです。それは、「猫たち」や「回想」がふくまれているからというだけでなく、私の研究に刺激を与え続けている本質的なテキストが数多く収められており、さらに私の知らない古いテキストもいくつか収録されているからでもあります。心から感謝します。私の方からも、先日、小編を一本お送りいたしました。……

そしてヤーコブソンの最後の書簡は、それに対する返信で、1982年3月30日のものである。

 親愛なるクロード
 お手紙と、非常に優美で説得力に満ちたご研究を送っていただき、ありがたく思いました。……第7巻となるContributions to Comparative  Mythology(比較神話学への寄与)も準備中です。この巻で取り組んでいるいるさまざまな問題について、ご助言いただければ大変うれしく存じます。……

「猫たち」の試論に関しては私はフランス語が分からないのでこれ以上ふれることは避けたいと思う。

ヤーコブソンの言語学にとって詩や詩論のもつ意味合いは極めて重要であったと思われる。私はこのnote(2023年10月25日付)にヤーコブソンの有名な論文,「言語学と詩学」に書かれているコミュニケーションのモデルを参考にさせていただき、自分なりのコミュニケーションモデルを書かせてもらった。その中で言語伝達の六つの基本的機能の一つとしてヤーコブソンは詩的機能を挙げている。私はそれをもう少し詳細に考えておきたいと思っている。

さらにもう一つ私は自著(自費出版)のなかで、ヤーコブソンとグレーテ・リュッペ=グロテュースによる論文「精神分裂病の言語ーヘルダーリンの話し言葉と詩」(「言語芸術・言語記号・言語の時間」、法政大学出版局、に収録)を取り上げさせていただいた。私には「猫たち」よりはわかりやすい論文であった。

いきなり脱線してしまい話が後先になってしまったが、ここで二人の学者が出会った1942年のニューヨークに戻ってみたいと思う。
ロシア人の言語学者ヤーコブソンは当時46歳で、レヴィ=ストロースは12歳年下の34歳であった。二人とも1941年にナチスの手から逃れてアメリカに亡命していた。

当時のアメリカの状況をスチュアート・ヒューズが「大変貌 社会思想の大移動 1930ー1965」の中で次のように書いている。

1930年代と1940年代のアメリカには、外国の有能な人びとを異例なほど受け入れさせるある特徴があった。この社会は開かれていた……外国なまりがほとんど問題にされない多元社会であり、……さらに特定的には、高等学術研究の諸機関は、ヨーロッパのものよりも多様でありまた閉鎖的ではなかった。個々の教授があまり権力ないし権威をもっていない状況であったので、外国生まれの人たちを仲間に加えることは比較的容易であった。さらに、第二次世界大戦が勃発したとき、政府自身が、敵国人と考えても当然な人たちを、信頼を必要する部署に進んでつけてもみせた。最後に、多くのアメリカ人のもっている反主知主義そのものが、新来のヨーロッパ人たちに挑戦してかれらの思想を大衆が理解できるような形に変えさせようとした。

二人はこのようなアメリカに逃れてきた。

ヤーコブソンは、これまでも何度か国外追放を経験していた。まず1920年にソヴィエト・ロシアから逃れ、1939年にナチスが侵入してきたプラハから、そしてデンマーク、ノルウェー、スウェーデンを経て1941年にはヨーロッパ全体から締め出されてしまったのである。

ヤーコブソンはプラハで「プラハ言語サークル」を立ち上げて、ロシア・フォルマリズムやソシュールの言語理論、ロシア語の音韻論などをもとにプラハ構造主義と呼ばれる構造言語学トゥルベッコーイなどと共に形成した。

レヴィ=ストロースは1935年から37 年にかけてブラジルの新設大学であるサンパウロ大学で社会学の講師として勤務した。そこで、彼はフェルナン・ブローデルと出会っている。ブローデルは20世紀の歴史学に大きな変革を与えたアナール学派の代表的な学者で「地中海」などの著書がある。
またレヴィ=ストロースはブラジルでフィールドワークにも従事した。サンパウロ大学在籍時にはボロロ族を中心に、パリに戻ってからも1938年にフランスとブラジルの博物館の資料蒐集のために半年の間ブラジルに赴き、ナンビクワラ族やトゥビクワラ族などと接触している。その成果の一つである、ボロロ族に関する研究論文がアメリカの研究学会の機関誌に掲載されていて、アメリカではすでに民族学者として知られた存在であった。そのことがアメリカの亡命の際に役立った。1941年、レヴィ=ストロースが乗船した、アメリカに向かう「キャプテン・ポール・ルメルル号」にはシュールレアリストのアンドレ・ブルトンも乗っていて友人となった。

ヤーコブソンとレヴィ=ストロースはニューヨークでナチスに追われたフランス語圏の学者を中心として創設された高等研究自由学院の設立に向けた会合で出会っている。二人はそこで講義とセミナーを行うこととなっていた。二人を仲介したのはヤーコブソンの友人でロシア出身の科学史を専門とする、アレクサンドル・コイレである。

レヴィ=ストロースはエリボンを相手に語った「遠近の回想」(みすず書房、1991)の中で、ヤーコブソンとの出会いについて、二人は学問的に近い存在で、お互いに友達になるしかない、とすぐに感じ合いました。当時の自分は素朴な構造主義者でしたが、ヤーコブソンは構造言語学の存在を教えてくれましたと述べている。よく知られているようにこの二人の出会いから「構造主義」が生まれた。その後の二人の友情は、無傷の友情で、40年間続いて疎遠になることもなかった。そして「彼(ヤーコブソン)が死ぬ何日か前に彼から一編の論文の抜き刷りが送られてきました、そこには「わが弟なるクロードへ」という献辞が書きこまれていました」とレヴィ=ストロースは述べている。

二人は高等研究自由学院での互いの講義とセミナーに顔を出し続けている。
レヴィ=ストロースの講義を受けたヤーコブソンから「それを本に書きたまえ」とすすめられたレヴィ=ストロースは1943年から書き始めた。そして1948年に書き終えた。それが博士論文となる「親族の基本構造」である。
ヤーコブソンはレヴィ=ストロースの求めに応じて、1948年5月12日の書簡に、初期スラブ語の親族関係に関連した資料を添付した。

一方でヤーコブソンの「音と意味」をめぐる講義にレヴィ=ストロースは多大な影響を受けた。ヤーコブソンは「音声と意味」を主題にした本をずっと書こうと構想していたが残念ながらうまくいかなかったことが往復書簡から読み取れる。ただし当時のヤーコブソンの講義録は1976年になって「音と意味についての六章」という題で出版された。レヴィ=ストロースが感銘深い序文を書いている。ヤーコブソンはすでに80歳になっていた。

本書での書簡は1942年4月6日から始まり、その年は3篇の書簡が収められている。往復書簡が濃密になるのは1947年の秋からである。そのころから二人の別離が決定的なっていた。

レヴィ=ストロースは1945年大戦終了時にいったんフランスに帰国したが、フランス大使館文化参事官として再びアメリカにやってきて1948年に帰国する。レヴィ=ストロースはヤーコブソンがヨーロッパに帰れるように友人たちと画策しただうまくいかなかった。ヤーコブソンは死ぬまでアメリカに留まることになる。1949年までニューヨークにいて、その後ケンブリッジ(マサチューセッツ州)のハーバード大学教授として採用された。1957年からは並行してMITの客員教授となる。

私は本書を手にしてから、良い機会と考えて、自分の本棚から二人に関連した本を20冊ほど手元に置いて参照しながら読み始めた。ヤーコブソンの「音と意味についての六章」を入手していると思っていたのだが本棚には見当たらなかった。レヴィ=ストロースの「神話論理」はⅠ巻とⅣー2巻しか買っていなかったことを少し悔やんだ。
私は本書を読みながらしばしば他の本に気をとられてしまい、なかなか前に進まない読書になってしまった。

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字数の関係もあるので以下では本書から読み取れて、私が関心を持った二人の交友関係と学問的な関係についていくつか書かせていただきたいと思う。

  二人の交友関係

1947年12月29日の書簡でレヴィ=ストロースは、「デュメジルとバンヴェニストに会いました。前者についてはまったく好感を持てませんでした。……反対にバンヴェニストの方からは、去年と比べると比較にならないほど誠意のある熱心な歓迎を受けました」と対照的な感想をヤーコブソンに送っている。二人とも本物の構造主義者であり、その後はレヴィ=ストロースにとって大事な友人となる。バンヴェニストは1939年からコレージュ・ド・フランスの比較文法講座の正教授で、1948年6月にはレヴィ=ストロースの博士論文の審査委員となる。

レヴィ=ストロースは1948年にニューヨーク以来の友人コイレ宅で精神科医ジャック・ラカンに紹介され、ラカン宅で六年後に三番目の妻となるモニーク・ローマンと出会う。レヴィ=ストロースはヤーコブソンにラカンを紹介。三人は家族ぐるみで付き合う親友となる。フランスに寄ったヤーコブソンはしばしばラカンが所有するリール街のアパルトマンに宿泊している。書簡のなかでもラカンの名前が時々とりあげられている。

1949年3月23日の書簡でレヴィ=ストロースはバンヴェニストらと雑誌を刊行することにしたことを報告し、追伸の中で、ヤーコブソンにニューヨークに短期滞在する予定のモーリス・メルロポンティを紹介している。
レヴィ=ストロースは1931年に哲学の教授資格試験にメルロポンティとシモーヌ・ド・ボーヴォワールと同期で合格、教育実習で知り合う。ボーヴォワールとは亡命中のニューヨークで会っている。ニューヨークではサルトルとも一度会食をしたが、カミュやシモーヌ・ヴィーユのように親しくはいかなかったようである。メルロポンティとは彼の死まで親交を結び、互いに影響を与え合っている。

1950年2月14日のヤーコブソンの書簡では、「数日前にたまたま用事があってマーガレット・ミードに電話したのですが、彼女は前置きなしに、あなたが耐え難い状況に置かれていることについて話し始め、それはフランスの人々があなたを理解せず、あなたが相応の地位をてにすることを妨げているせいだと言っておりました。……」と書ている。ミードの言う耐え難い状況とは、1949年の11月にレヴィ=ストロースがコレージュ・ド・フランスの教授選挙に落選したことを指しているのだろう。レヴィ=ストロースはニューヨーク時代に人類学者であるミードと知り合いになっている。

1950年の秋にもう一度、コレージュ・ド・フランスの教授選挙に臨んで落選したレヴィ=ストロースの落胆はさすがに強いものがあった。
1951年3月15日の書簡でレヴィ=ストロースはヤーコブソ宛に次のように書いている。「コイレ夫妻から聞いたのですが、私が長いこと沈黙していることに不満だそうですね。……(パキスタンから)帰国してからも倦怠感に沈み込んでしまっていて、何か書いたり、特に友人に手紙を書いたりしようという意欲がまったく湧いてこなかったのです。コレージュの落選は、耐え難いほど辛いものでしたから……」

ヤーコブソンはパリで不遇な目にあっているレヴィ=ストロースをハーバードに呼ぼうと動いている。
1953年3月2日の書簡に、絶対に内密にとことわって、クラックホーン(文化人類学者)とパーソンズ(社会学者)が、あなたをハーバード大学に招聘し、人類学教授の専任ポストを提供しようと骨身をおしまず尽力しています……と書き送っている。さらにその年の11月24日のヤーコブソンの書簡で、ハーバード大学から公式の申し出が11月にレヴィ=ストロースに送られたたことがわかる。タルコット・パーソンズはさらに12月にイギリスからの帰りに直接パリのレヴィ=ストロースを訪れている。しかし、何をしても無駄であった。レヴィ=ストロースはパリに留まることを選択した。当時のアメリカはマッカーシズムが吹き荒れていることをクラックホーンは手紙の中で心配していた。レヴィ=ストロースは若いころはマルクス主義者だった、そのことが何処までレヴィ=ストロースの選択に影響したのだろうか?

レヴィ=ストロースが正式に新設の社会人類学教授となるのは1959年のことである。それにはメルロ・ポンティの尽力が大きかった。それだけにレヴィ=ストロースにとって、1961年5月3日の心臓発作によるメルロ・ポンティの急死は大変なショックであった。

レヴィ=ストロースは1952年1月9日の書簡で、後に「フラクタル」の理論で有名になる、数学者ブノア・マンデルブロと連絡を取っていますと書いている。そして彼は世界中の言語を、コード化の容易さの大小で分類して、言語学における熱力学法則のようなものを見出したと信じています。また彼はフォン・ノイマンのゲーム理論を言語学に応用できるだろうと確信していますと記したうえで、さらに彼が、音素の頻度に関する統計表が存在する言語があるかどうか知りたがっています。何かご存じですか?とヤーコブソンに尋ねている。
マンデルブロと二人はその後共同で研究をする仲になる。二人とも自分たちの専門に数学を応用することを含めて、数学には大きな期待を抱いていた。

実際に、レヴィ=ストロースは「親族の基本構造」のなかで、第一部補遺の形で数学集団「ブルバキ」の主要メンバーである、アンドレ・ヴェーユ(シモーネ・ヴェーユの兄)に依頼して、「婚姻法則の諸型についての代数的研究」を書いてもらっている。

  二人の学問的な関係

先にも触れたが二人は戦時中のニューヨークで出会い、ヤーコブソンの構造言語学に関する講義がレヴィ=ストロースに影響を与えて構造人類学を誕生させた。さらに、レヴィ=ストロースが1962年に出版した「野生の思考」によって、戦後ヨーロッパの思想の流れをサルトル的な実存主義から構造主義へと大きく転換させる契機となった。

構造主義の方法とは何か、構造とは何を意味しているのかという問題に充分深入りするだけの能力を私は持たないが、私の書ける範囲で少しその点も含めて二人の学問的な関係に関して触れさせていただきたいと思う。

レヴィ=ストロースは「はるかなる視線」に収められている、ヤーコブソンの「音と意味についての六章」の序文で、次のように書いている。「構造言語学が私に教えたことは、事項の数が多く多様であることにまどわされず、それらを結合する、より単純で明晰な関係を考察することの重要性だった」。ヤーコブソンは本来、説明とは「多様性を通じて不変の要素を示す」ことだとしている。しかし、「1942-43年当時、すでに私は親族体系について講義していたが、……事項の考察を離れて関係を考察するには到っていなかった」とレヴィ=ストロースは反省している。

以上のこともふまえて、誤りがあるかもしれないが、私が理解した範囲で構造主義の方法についてまず書きとめさせていただきたい。

各学問がそれぞれに対象とする構造の多様な事項を結合し、それらの関係を明晰に考察して、その構造の不変的な姿を見出すことが構造主義の課題となる。そのために対象のなかから必要な要素を導きだし、さらに要素の中から不変の要素を示すことが必要になる。多様に見える構造をより単純な構造に変換しながら、対象の構造を不変的要素の組み立てとして説明することが構造主義の方法である。

言語学における不変の要素は「音素」にあたる。レヴィストロースは、「親族の基本構造」においては「インセストタブー(近親相姦禁忌)」をそれにあて、「神話論理」においては「神話素」を想定した。

レヴィ=ストロースは「音と意味についての六章」の序文で、音素という概念インセストタブーの概念はたしかに大きくかけはなれているかもしれないが、後者についての私の概念形成は、言語学者が音素に与えた役割に着想を得ていると述べている。
形態としての音素あらゆる言語のコミュニケーションの手段としてあるように、インセストタブーはまた、音素とおなじく空位形態でありながら、生物集団のコミュニケーションを成立させる交換の網目のなかで、集団の連接を可能かつ必然にするためには、不可欠なのである。とレヴィ=ストロースは言う。つまり言語においては音素が音声と意味との有機的連接を成り立たせているが、婚姻関係にもとづいて形成される親族の基本構造のなかではインセストタブーがその役割を担っている。レヴィ=ストロースは両者が異なった次元での自然と文化の連接に対応していると認識している。

ヤーコブソンが音素をどうとらえているかをもう少し見ておきたい。

ヤーコブソンは「音と意味についての六章」のなかで、先にも触れたように音声と意味が不可分であると述べ、その結合の仕組みは、音素が担うとした。そのうえで音素は意義を弁別する道具であってそれ自身は意味作用は持たないと述べている。
さらにヤーコブソンは「ヤーコブソン選集Ⅰ」のなかで、意味を持つ音声と音素の関係を「音素は音声と同一でもないし、必然的に音声のうちに現前し、これに内在し、重加されるものである。それは変異体のなかの不変異性である」と述べている。

ヤーコブソンは音素体系の最初の段階を下図のような母音三角形や子音三角形の形で提示した。その垂直次元は、集中-拡散の対立。水平次元は高音調ー低音調の対立で性格づけた。音素の三角形に影響を受けたレヴィ=ストロースは「神話論理」の考察の一つに「料理の三角形」を着想して提示した。そして神話に表現される「なまのもの」と「火にかけたもの」の対立に自然から文化への移行を想定した。


小田亮著、「レヴィストロース入門」より
ちくま新書(75頁)


神話に関しては、レヴィ=ストロースが「遠近の回想」のなかで、エリボンの質問に対して、興味深い回答をしているので、2~3書き留めておきたいと思う。

「神話というのは何ですか?」というエリボンの質問に、
「もしあなたがアメリカ・インディアンの誰かにお訊ねになったとしましょう。そうすると彼はきっとこう答えるでしょう。それは、人間と動物がまだ区別されていなかった頃の物語であるとね」

次に、「神話論理」に関して、「裸の人間」の一章が「唯一の神話」で終わります。それは「神話論理」で分析したすべての神話が一つの神話の変化形であったという事ですか。という質問に、
「少なくとも、自然から文化への移行という大きなテーマをめぐっての変奏曲であった、とは言えるでしょう。それは、天上世界と地上世界の交感の決定的な断裂、という代償を払って獲られた移行でした」と答えている。

もう一つ、エリボンの質問は、レヴィ=ストロースが「土器つくり」のなかでふれている「フロイトの関心は性コードにのみ集中しすぎている」という点に関するものである。レヴィ=ストロースは次のように答えている。
「性の問題だけを切り離して特別に扱っている神話は一つもない。神話的思考は、同時にいくつかのコードを用いているのです

以下に述べることは、私の個人的な見かただが、レヴィ=ストロースが「神話論理」の中で分析する神話には確かに、性コードのみでなく、食コードや衣コードさらに暴力コードなどが絡み合っている。特に私は神話のなかの暴力コードがずっと気になっている。同様のコードが昔話や童話のなかでもみられている。話を文字通りに受け取ると気がめいりそうな内容だが、物語のなかでは、極めて建設的な役割をおびているとみられる。すなわち、それは文化や社会を形成するためのコードであり、子供から大人になるためのコードであり、あるいは個体としての生き物が自らの生と死を受け入れるためのコードであり、そしてあらゆる生き物と共生するための倫理的覚悟を語るコードである。少なくとも、それは現在のウクライナ戦争やガザでの戦争の救いのない暴力コードとは正反対のものであると私は考える。


説明がj不十分であったが、レヴィ=ストロースの弟子で「悲しき熱帯」の訳者である、川田順造の「レヴィ=ストロース論集成」から、構造主義の方法に関して書かれた文章を引用させていただいて、ここでのとりあえずの締めくくりとしておきたい。

「悲しき熱帯」を読むと、レヴィ=ストロースがその後展開した構造主義の方法が、どのようにして形成されたのか、最初期の状況がよくわかります。構造主義というのは対象の中から構成要素を抽出して、その要素の相互関係ーすなわち構造ーを考えるという方法です。その時大事なのは、構造を変換させながら不変のものを探っていくという点ですが、その考え方の生まれた背景と、その方法の適用の試みが、「悲しき熱帯」を読むとよく見えて来ます。


              

二人の学者は自分の専門領域に閉じこもることなく様々な領域に関心を広げる「知の巨人」である。

その一例をあげておこう。ヤーコブソンはノーバート・ウィーナーやフォン・ノイマンらが始めた「メイシー会議」の第5回会議に参加している。1948年5月12日の書簡で、会議は非常に刺激的で、さまざまな科学を代表する著名人が何人か参加し、議論も知識や技術にかんする多様な領域を収斂させるような魅力的な展開を示しておりました。と書き送っている。さらに彼はウィーナーの「サイバネティクス」やシャノンとウィーバーの「通信の数学的理論」をレヴィ=ストロースに送っている。二人(ラカンを含めて三人)にとって「サイバネティクス」や「情報科学」はそれぞれの専門領域でも重要な意味を持ち、「フードバック」「コード」「メッセ―ジ」「冗長性」「受信者」「雑音」などの用語を頻繁に使用している。
たとえば、ヤーコブソンは「コード」をソシュールの言う「ラング」の意味で、「メッセージ」「パロール」の意味で使用している。またラカンはセミナーのなかで「サイバネティクス」を主題に論議している。
さらにヤーコブソンはいち早く言語コード遺伝子コードの類似性に言及していて、言語を分子生物学で説明する可能性に期待をよせている。

               

構造主義の学問的系譜をたどると、フェルディナン・ド・ソシュールの言語学や記号学に行き着く。ヤーコブソンもレヴィ=ストロースもともにソシュールに対しては、尊敬の念を失っていない。
しかし、ヤーコブソンはソシュールの先を行くべきだと述べていている。彼はソシュールの重要なテーゼともいえる、言語における「恣意性」や「線状性」の概念に一定の留保を与えている。私は対話(パロル)において示す言語の状態を考えるとヤーコブソンの主張を支持できると考えている。

ソシュールはアナグラムの研究をしたり、神話と言語学の関連にも言及している。アナグラムに関してはヤーコブソンが関心をよせている。またソシュールの神々の起源についての言語学的解釈を扱った未公開草稿を読み解いた論考をレヴィ=ストロースは書いている(「はるかなる視線2」218頁)

言語学に関連してチョムスキーについてすこし触れておきたい。チョムスキーはハーバード大学時代にヤーコブソンの教えを受けている、弟子である。レヴィ=ストロースはヤーコブソンの紹介でチョムスキーに出会っているのだが、チョムスキーの「生成文法」に関しては、あまりにも専門化しすぎて、あまりにも複雑になりすぎて、もう私の手には負えませんとやや突き放した言い方をしている。チョムスキーとは充分に打ち解けた関係を結べなかったようだ。

ところで、チョムスキー学派はコミュニケーションのための言語という見方を厳しく排除する。一方でヤーコブソンとレヴィ=ストロースは何度か、様々な分野の学者を動員して言語やコミュニケーションにかかわる研究企画を立てている。書簡を読む限りその企画がどれもうまく実現できなかったことがわかる。コミュニケーションの問題に強い関心を持っている私としてはとても残念な思いでそれを受けとめた。

もう一つ私が残念に思ったことを書かせていただきたい。書簡によると、二人がマーガレット・ミードと知り合いになっていることがわかるが、彼女の元夫であり、サイバネティクスのすぐれた援護者でもあるグレゴリー・ベイトソンと交友を持ったという形跡のないことを私は残念に思うのだ。これは、私の勝手な思い込みであるが、ベイトソンやヘイリー、ワツラウィック等によっによって展開された、精神医学的なコミュニケーション理論や家族療法に関して二人の学者の影響が関与したらもう少し豊かなものになっていたかもしれないと私は残念に思うのである。

                                                        

1962年6月27日の書簡で、ヤーコブソンはレヴィ=ストロースの「野生の思考」のなかのサルトルに向けた議論に関して、「私にはやや概略的で、建設的観点から説得力を欠いているように見える唯一の章は、サルトルとの論争です。彼の著作(「弁証法的理性批判」)における議論が、あなたの著作としっかりかみ合った結論になっているかどうか、確信が持てません」と書いている。

レヴィ=ストロースは同年の7月5日の書簡で、「野生の思考」を気に入っていただけたようで、うれしく思います。特に、固有名に関する章が非難すべきものだと思われなかったことに安堵しました(ヤーコブソンの書簡で、この章は、言語理論に対する直接的で注目すべき寄与になっています。と書かれていた)としたうえで、サルトルに関する章について次のように書き送っている。
この章の本当の目的は、歴史的認識というものは、野生の思考の上位にあるものでもなければ、外部にあるのでもないのだということを示すことです。つまり、歴史的認識は、文明化された白人の特権のようなものなどではなく、むしろ、まったく反対に、野生の思考の一部をなしているのだ、ということを示すことです

しかし、この章を含めて「野生の思考」にたいする世間の反応は、サルトル的な実存主義から構造主義への転換を示す記念すべき書物だという事であった。その後はラカンやバルト、アルチュセール、フーコーという名とともにレヴィ=ストロースは構造主義者と一括される。そのことに関してレヴィ=ストロースは「それは不愉快でした。なぜなら、その「構造主義」というものは一つのアマルガムであって、何の根拠も持たないものでしたから」と「遠近の回想」のなかで話している。

「構造主義」は10年もたたないうちに「ポスト構造主義」の流行にのみこまれてしまう。デリダやドゥルーズ「差延の哲学」あるいは「差異の哲学」を主張し、構造主義は忘れられていく。

私は「差異の哲学」に興味を感じているが、差異をあまりに強調しすぎることには疑問がある。私はヤーコブソンが「類似性がなければ、差異も存在しえないでしょう」と述べていることに賛同する。

考察がまだ十分ではないが、私は精神科的な症状の一部のものは、いわば同一性(類似性)と差異性との間のダイナミックな運動に基づいて生成するのではないかという考えを抱いている。今後の課題としておきたい。 

  


            





 






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