映画『怪物』 怪物とは「なに」か。

『異文化としての子ども(本田和子/著 初版は紀伊国屋書店 1982)は私のバイブルのような本で、今もよく読み直しています。

「子供たちはおのずからなる反秩序性の体現者であり、文化の外にある存在である。私たちは『対立する他者』として子供を捉え直す必要に迫られる」

子どもは大人を挑発し、混乱をもたらす存在です。今でいえば代表的なのは、クレヨンしんちゃんかなぁ。周囲の大人を騒動に巻き込み、本音や建て前や見栄を暴く存在です。
児童文学で言うと、ハイジとモモがこの本で取り上げられています。アン・シャーリーもそうでしょう。彼女らは閉鎖的な大人の世界に異文化を持ち込み、次々とそれまでになかった事件を起こしますが、次第に大人たちは人間性を取り戻し、解放していきます。

私は『怪物』も同様の構造を持っていると思っています。
何度も繰り返される「怪物だ──れだ」は鑑賞者への問いなのでしょう。答えはそれぞれが見つけることなので言及しませんが、「異文化」を「異物」と変更し、「だれ」ではなく「なに」と考えると、私は腑に落ちました。

「異物」はそれ自身では「異物」になり得ず、社会的に排除されて「異物」と見なされます。それの存在を認めると社会が困る、という性質のものです。昨今の国会でいえば「難民」であり、「LGBT」(特にトランス女性)です。

ある少年が、自分のなかに「異物」を発見しました。それは社会から歓迎されざるものです。
子どもは生理的・感情的な反応をします。自分の統制を超える部分に対し、忌避の感情を抑えることはできません。理性を重んじる大人から見れば、彼らの行動はまったく理解できない「奇行」としか見えません。理性というとかっこいいですが、要は大人は因果論でしか理解できないからです。理由を知りたがるが、当の少年でさえその理由がわからず、「分からなさ」のいらだちが大人をモンスター化させると、私は思ったのです。

「異物」を作り出しているのが実は社会の偏見で、偏見が作りだした「異物」によって社会が混乱したり、分断されたりする。そういうメッセージを、私はこの作品から受け取りました。

その「異物」が何かは、映画をご覧ください。

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