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月がまあまあいい感じですね

眠いし適当に500文字くらい書いて寝ます。

スマホのカメラが雑魚すぎて上手く撮れなかった。畢竟、実際に見やるのとは次元の違うしそれはそれでいいのかもと思った。気がかりなら見上げてみるといい。きっと明日も綺麗な月が思い出したかのようにぼんやり浮かんでいることだろう。

ここから見下ろす街には思い出がある。とは言っても去年の話だが。ここいらが社員の配達区であった時、新人の私はここに住んでいることもあって特記戦力として重宝された。ここは2本の省線が通り、難解な地形であることから忌み嫌われていたのだ。ここに私が活躍できたのは運命の温かな祝福であったと考えている。喩え復讐の神が電柱の蔭で私を睨んでいたとしても。時々はそんなふうに呪われてしまうこともある。数日前だって。

そう、あそこに住んでるあの人は19時~21時の指定をするが19時にシャワーを浴びるから19時半に行かないと配達ができない。仲良くなってからは玄関前に置いておいていいと言ってくれた。あすこのマンションに住んでるシングルマザーは子どもが起きてしまうのでインターホンを鳴らさずに木の板の上に荷物を置いて置いて欲しいと言った。あの家へ配達するならむしろそこから階段を昇った方が早い、17時以前には両親とも不在だが。そんなことがいくつも思い出される。今は委託業者が配達を担当している。

灼熱に身を焼きながら24本のペットボトルに入れられた飲料水を、マンションの5階まで2つ同時に運んで不在だったというのを繰り返していたら脊髄のあたりがゾワゾワして、山登りをした後のように耳が籠っているのを感じた。如何に水分、塩分を摂取したとしても心、内から生ずる鈍痛には効果がない。摩耗していく、削りカスはそう、ボタボタと額から喀血している。不在票はぐしゃぐしゃになり、宛名の記したインクは醜く歪んでいく。じわりじわりと縷膾する文字に少しく痛切な思いを感じた。

なにか、いつも大きく誤った事をしているかのような不安に駆られる。

譬えば、誰もいない学校に忍び込むとか、ボールの投げ込まれた誰かの家の庭へ入るとか、無神経なまま誰かを傷つけているような、愛情という名の手紙が封を破られるまでもなく返還されてきたかのような、正しく善くありたいと思えば思うほど、そうあれる環境じゃないと諦めてしまう。

元来、諍いは敗者を生むだけの動物的な行為と唾棄してきた。然し今はどうだろう。私は仕事を覚えて本を読んで人と話して情けなかった頃の自分に「お前なんか死んじゃえ」と言ってる。そうして同じようにどうしようもないやつはくたばってしまえと言っている。社会に倣うにつれてなにか生来自分にあった大切なものが津波に削られていっているかのように思える。なにが大切だったのだろうか。私にとって大切なのだろうか。誰かにとって大切だったのだろうか。もうとっくに縷縷と流れていってしまった。

適応するとは、そういうことじゃないか。少しく無職の砌、何故誰も私も含めてやりたくないことをやってやりたいこともなくて生という楔に身をやつしているのだろうと考えていた。誰のために穿たれたそれによって呪われ、生まれたくもない姿のまま両親の博打に付き合わされ、そら見たことか醜い私を産んだあなたがたはのうのうと生きる、これが芥川の河童ならば、産まれず子宮で縊死していた。

生きるため適応した。多くを捨てて多くを得た。失くしたくないものまで亡くした。こんな思いをしてまで生きなければならないのだろうか。なにせ、喪うばかりが人生なら虚しいじゃないか。こうして調律のズレた自鳴琴が歪なマイナーコードを吐き出すように生きるならば。それは果たして醜いのだろうか。

カリブのアカい島、キューバでは現在もできそこないの共産主義、社会主義で社会が廻っている。競争を否定し平等を謳い、居住地さえも国に分配される。バック・トゥ・ザ・フューチャーに出てくるような古めかしいアメリカ車が石造りの治す金もないガタガタの道路を、黒煙を吹いて走ってく。では、なぜその分配される家々には優劣があるのだろうか。恐らくは全ての仕事が公務だとしても、本当の公務とは別れているのだろう。若しくは誰か誰にどのように気に入られているか、鬱陶しがられているか。成程、生物が個人であるための最小単位の絶対的な否定はかくも増長し打ち負かすための糸切り歯となった。

人々は皆優しかった。喩えそこに円な競争が秘かにあったとして。それでも流離う亜細亜人にも"もう自分にはできなくなってしまった子どものような明るい笑顔を浮かべて"Graciasと言ってくれる。大きなホテルにはWiFiの電波を求めて多くの人が屯している。近くの海岸には明け方の払暁にも見かけた人がまだ夕焼けに照らされて何かを話している。何を話すことがあるのだろう?本当は私達も貴女を知りたいし私を教えたいと思ってるのかも。でもそれはエゴイズムだからと押し殺してしまう。アカい島に浮かぶ夕暮れは何を照らしているのだろう?

日陰に野良犬が寝転んでいる。何故かそれを私は気高いと感じた。

私は私を本当にコントロールしたい。前後不覚だ、わかってると言いつつ何も分からない。聞いてると言いながら何も聞こえていない。いつも思考は嵐のように吹き荒んで、夢の飛礫が狂う。なんでこんなこともわからないんだろう?頭が痛い、懇々と手首でこめかみを叩くと紙切れがポロッと出てきた。

ぐしゃぐしゃに丸められた用紙にはこう書かれている。

遙か思いもよらないほど深淵の遠くで、細胞は未来を求めて細胞を懐柔した。細胞壁の中で細胞は細胞を生んだ。分裂を繰り返して生まれたものは深海でより大きく、強くありたいと願った。殺し、喰らい、その過程を次の世代に遺したいと思った。何故ならこの命はいくばくか消え果ててしまうからだ。残す、と。生きた、とは。同列の概念だ。そんな無限の旋律の全ては現在のあなたのためにある。全て死者たちの祈りはあなたのためにあると言える。あなたが悩み泪し自害さえ思う時にも、その小さな生命未満の願いのかけらが、全てがあなたのためにあるのだと伝えたい。誰も一人ではない、今ならわかるだろう。全てはあなたのためにあったのだから。せめて聞こえますように。

理由あって1年ぶりにdiscordを開いたら前任者の痛切な文章があった。今や忘れ死んでいるその言葉は矢張りこの身を傷つける。違う、これは傷つけてきた人々の呪詛だ。でも、誰も傷つけたいなんて思ってなかったのに。嘘くさく聞こえるだろう?私にもそう聞こえる。頭蓋に木霊するのは言い訳がましい言葉ばかりだ。

「アルジャーノンに花束を」を読んでる。3割くらい読んだ。なんでこんな本が書けるのだらう?日誌という形で紡がれていて、知的障害者の語り部はめちゃくちゃな言葉のアルファベットの反転した文字で、非論理的な感情を表現する。これの知能を上げる実験が行われる。知性が伴うのにつれて人々が自分を蔑み蹴落として安心していたことに気づく。知らなければよかった。知能が上昇するにつれて嫌われていく。なぜか?頭が良くなれば好かれると思っていたのに。

苦しくて早くは読み進められない。気づく、とは、なぜこうも残酷なんだろう?無知で無邪気で子どもでいられたならどれだけ幸せなのだろう?論理の思考の果ては冷たい真実だ。私はそれを知っている。この表情を見ればわかるだろう?

大人になるとはなぜこうも悲しいんだろう?ボールを投げ合って、夕方の鐘琴が鳴って、塾があるからと帰る友達。1人で壁打ちをしていた。そこからきっと競走は始まっていたのだ。自分だけが気づかないままに。

そうだおれたちは今もこうして放浪している、どこかの無人島で同じように身を窶している浮浪者と心通わせて。交わしたはずもない約束のために心痛めて。岩壁の津波に削られた岩肌と船虫の群れと蠧魚と蚰蜒と蠰と蝗と蝙蝠の喧しい鳴き声とザザーーーーー……ザザーーーーー……。返す波が壜に詰めた願いを攫ってしまう。いつか波は帰るとて、この海岸線ではない。

文字を書くのがしんどくなってきた。全て何か世迷言のように聴こえる。そう話しているからだろうか。踊るように貪るように呪うように吐いた言葉が頭蓋の内で反響している。木霊、言霊、どす黒い意志の本流で。使い古したエンジンオイルのような吐瀉物。誰にも届かなくていい言葉と君には届いて欲しいという言葉、嘘くさい有難迷惑な言葉の数々を、如何して愛しさの裏側で潤んでるその瞳を見つめられるだろう。

どうすればいいのだろうか。

どうすれば人を愛せるのだろう。エゴイズムから離脱した尊い感情で人を見つめられるのだろう。誰もがどうしてそうしていられるのだろう。どうすれば時を止められるのだろう。全てを見下ろす夜をどうして額縁に飾れるのだろう。たとえ醜く老いてくだらない余生を送ったとして、その写真を眺めさえすれば生きていける。待ち望んでる夜、誰にも降りない夜、朝日を絞殺した夜、呪禁で払われない夜、全てに降る夜、誰かを幸せにしたい夜、それによって満たされたいと思う夜、思うことが烏滸がましいと思う夜、今宵は君のための夜、二日月と星々の祝福を詠う夜、シタールの共鳴弦が響く夜、砂の街を奔る夜、正しくありたい夜、善くありたい夜、土が溶ける夜、無力さを思い知る夜、歌い祈る夜、ワケを論じる夜、夜明けのない夜、明け方を忘れた夜、邪気を払う払暁を否定する夜、夜を否定する夜、夜であることを思う夜、意味のない夜、剃刀とシガーカッターと出刃包丁とデザインナイフと髭剃りとG7とB♭と人数制限と最終列車と星々と目の下の隈と黒板消しと机の花束と空席と見下されていたとわかった時にはもう遅い、あんなやつら殺してしまえばよかった、消え去りたい、消し去りたい、何もかも一声で霧散すればいいのに、おれが気違いだとして、おれがADHDだとして、おれが動物だとして、どうして心がないと言えるのか。ごらん、これだけ傷ついてるこの心には心がないのか?心は膿のようなもので、それを肴に人は生きている。時折無意識の本流から接続された適当な概念を大っぴらにして生きている。浅ましく惨めに這いつくばって靴を舐めて生きるには十分だ。悴んだ指に感ぜられるその暖かさ、君のために生きるというエゴ、おれのために生きて欲しいというエゴ、足跡に名づけたエゴの烙印。傷口から滲む烙印、人識落胤、秒針、衝動、アリガトウゴザイマス。

もう十分だ。

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