徒然なるままに

「王とサーカス」という本を読んだ。マレーシアと自分との関わりをぶん殴ってくるような本で、これを8年前に読んでいたら今自分はどうなっていただろうかとも思える本だった。読書は尊い。自分でも忘れていた葛藤や、眠っていた記憶や、思い出したくない事実でさえも、掘り起こされ、集合され、構築され直されていく。私のあの「誰かの帰る場所になりたい」という気持ち、願い。自分勝手な。
それはでも、今子どもたちへと注がれていて、今日の寝る前の30分の会話に落とし込まれる。命の話、妊娠・出産の話、受精卵の話、どれだけの奇跡で自分が産まれてきたかを聞く時間。何度となく話してあげよう。何度も確認してあげよう。ここはあなたの帰る場所、帰れる場所だと。伝えていこう。マレーシアのあの子に物理的に関わり続けることはできなかったけれど、こんなペイフォワード的な自己流の自己満で昇華されていっていいものだろうか。これは、大きな世界の中でプラスに何かを生み出しているのだろうか?おばあちゃんから、布団の中で天井を眺めながら聞いた戦争体験の話のように。ドライブがてらに本音を話せたように。隣で同じ方向の遠くを見つめながらのほうが、心に残る話ができるような気がする。こんな夜を、めったにはできないけれど、宝物の夜を、大切にできる人生でいたい。
この先も。

久しぶりに昨日は悔しかった。できない自分、が。
上手にできる自分であれば、ヘマをしない自分であれば、つけ込まれて弱みのように握られて理不尽な怒りや要求や暴言を受け入れなくてはいけないなんて思うことのもなくいられるのに。悔しい、悔しい、憎い。
髪の毛をむしる感覚はまだ残っている。これを本当に引っこむいてしまわぬよう、私は改善していく、前を向いて生きていく。
自分で解決できないものは持ちたくない。時間や手間がかかったとしても、効率が悪かったとしても。それで誰かに迷惑をかけるよりも、ヘマをして失敗をしてしまった「後に」誰かの助けを借りなければ回復できないなんてことは嫌だ、
というか、無償の助けだったらいいんだと思う。それに漬け込むような卑怯なやつに、私の責任は預けたくない。つくづく、私の親は損得なしの愛を教えてくれ伝えてくれ体現してくれた人たちだったとおもう。年を追うごとに、美化されていくものなのかな。あんなに嫌だった青春時代で、暗黒時代で、でもそれが私を作ってくれているし、電話をすれば必ず「あなたなら大丈夫」「いつでもSOSは出していいよ」と言ってくれた。ああやって心底信じてくれたから、私は素直だと思う。感謝の気持ちを持てるようになった。私は息子たちに「期待」はしない。あの子たちは「希望」だけれど、失望する相手じゃない。信頼する相手だし、そう育てたい。
でも夫は違う。夫には期待もしたいし甘えたいし、頼りたいし、少しのプライドは持ちたい。尊敬しあいたい。ミスをして、自分を嫌いになるような関係ではいたくない。
携帯を壊して学んだこと。アイフォンは複雑すぎるし、だから高すぎる。IDとパスワードは一回全部見直し、記録する。そうすれば、私でも責任を持てるのだろうか?自分がミスをしたから仕方がないんだ、と卑下して胸の中がキュウっとなるこの感覚は、もう夫に対して、抱きたくない。そう、わかってほしい。
私はあなたがパスポートを無くしても責めずに一緒に探した。だってね、私は同じミスをしたときに、怒ってほしくないから。注意深く生きようと思っても、突然自分に裏切られる。何度も何度も。だから、ヘマをしても大丈夫なように、コツコツ努力をして準備をして、信頼をもらえるような付き合いをして、そういう人生を重ねてきた。それでも起こるヘマに対して自分で責任を取るために、ヘマ用のお金も納得して捻出してきた。そうやって自分を愛する術を探してきたのに。苦しい、あんたといると、自分のミスが悔しい。こんな思いにさせられる結果を生み出したミスを、それをする自分を。悔しい、憎い、嫌いになる。この気持ちを伝えて、わかってもらいたい。諦めたくはない。私は囲われて撫でてほしい訳じゃないんだ。ただ、私であることを認めてほしいだけなんだ。私が私を愛するやり方を、尊重してほしいだけなんだ。私も、あなたのそれを大切にしていくから。今、ここで変われないなら、多分老後も変われない。異なる夫婦のいく末を見て、強くそう思う。
損得なしに、愛は感じているし感謝もしている。でも、もう同じようには戻れない。というか、あれではいけなかったからこうなったんだ、と思う。甘えるのと、頼るのは違う。大人になるっていうことは、上手に誰かに頼って生きていくことだ、と思う。そして「私はこれができるから、こんな時に頼ってね」と言えるようになれることだとも。30代も半ばにして、ようやく大人になることの意味はわかってきたような気がするけれど、本当に大人になれるのはまだまだ先か..とも思い知らされた。

今年は冬はスノボ、5月のキャンプ、6月の結婚式ディズニー、部屋の改造。7月の宮古島、8月の帰省×2とサッカー観戦と伊豆旅行と月で暮らす展と….
目まぐるしく、たくさんの経験があった。植物も生き物もたくさん育てた。
あまりにもインプットは多いけれど、アウトプットはできてない気がする。
自分も、子どもたちも。何か出せるのだろうか。出さなくちゃいけないものではないけれど。「あぁ、そういえばあれ・・・」と繋がって、ずっと体の一部となって生きていてほしい体験を、たくさんした年になったと思う。精一杯ギリギリでいきた今年が、この先も身体を駆け巡ってほしいとは、願ってしまう。

あぁ今日も、生きた。それで満足している。足りないものも渡せてないものも抱えきれないほどあるけれど。今日も生きた。それが何より素晴らしい、と思える。

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