感想:空昼ブランコ番外編 ふつおた大激論 #9
2024/7/21に配信された『ジョー・力一の空昼ブランコ番外編 ふつおた大激論 #9』に投稿された、「自分の考えが持てないのが悩み」というお便りとジョー・力一の回答についての感想と、自分語り。
※アーカイブ動画の1:44:42~2:01:42あたりの内容に触れています。
昨日のお便りが存外自分の興味関心に刺さったようで、日が変わっても相談内容と回答についてぼんやりと考えてしまっている。
テーマについて個人的に色々と思うところがあったのもそうだけれど、お便りについてあれやこれやと思索を巡らすジョー・力一の言葉選び、考え方に心を惹かれた。
とはいえ、一度聴いただけでは理解も気持ちも追い付かず。それでも、何度も反芻したくなる内容だったので、言葉のお守りにしようと思い、日を改めて該当の15分あまりをまるまる文字起こしした。
このnoteはラジオを聴き返したり、文字起こししたものを読んだりしながら、つらつらと書いた。
ぼんやりと寝る前に聴いていたラジオにここまで突き動かされるとは思っていなかったので、自分でも驚いている。
お便りの方は自分の考えを持てないことが悩み。
自分の意見と思っていたものは、周りの意見に流されているだけなのでは?と思ってしまう。時には他人の批評に影響を受けて、自分の考えが良い方にも悪い方にも変わってしまう。
自分の意見を考えられない人間になってしまったなと感じるとともに、自分で考えたことをどこまで自分のものと言えるのか分からなくなり、悩んでいるとのこと。
すごく考えさせられるテーマだなと思う。
テーマそれ自体が人に考える余地を与えてくれるというか。この方は悩んでいるから相談しているのにこんな感想を持つのは無神経だけれど、「どこまでが自分の考えといえるのか?」についてあれこれ考えるのも、力ちゃんの見解を聴くのも、とても興味深くて、楽しかった。
自分の考えって何だろうという問いに対して、自分の考えは液体で、持っていても指のすき間から流れていくもの、流動体なんだという力ちゃんの言葉、腑に落ちたなあ。
自分の考えについて「命がけで守らなきゃいけないものでもないし、時とともに変わっていくものだから、時折人の考えに触れて違う流れを引き込んでみるのも良いかもね」といった旨の話をしていて、生きていくうえで迷った時のためにお守りとしたいアドバイスの一つになった。
人の意見を流れとして取り入れたときに、混ざりあって自分の考えが更新されていくかもしれないし、受け入れられなくてむしろ流れが速くなっていくかもしれないし、そのどちらが悪いというわけでもないっていう考え方も、聴きながらすごい感心しちゃった。自分の考えはある派にもない派にも聞き入れやすくて、上手いなと思った。どちらにとっても呪いにならない。
あと、自分の考えが持てなかったらしんどいという話の中で、「感想として上手いことを言えないと理解できなかったんじゃないかとか、コンテンツに見放されたような気持ちになるのも分かる」ということについて。
結構これってSNSで好きなコンテンツを追っていたら抱えることのある悩みなんじゃないかなと、推し活的なことを思い浮かべながら聴いていた。
好きなコンテンツ(推しやその界隈)から供給があったら、その一挙一動について何かリアクションしなきゃいけないんじゃないか、と不安に駆られたり。良い感じの感想を言えない(思いつかない)自分って信仰心が足りてないんじゃないかって苦しくなったり、さみしくなったり。
何かを見て、誰かと比べて、ひとりで悶々と悩む人が少なからずいる印象がある。
物凄いスピードでリアクションしている人は確かにいるかもしれないけど、生きる車線が違うだけで本来比べる必要はないし。必ず何か良い感じの感想言わなきゃって自分を縛るのもしんどいし。
自分が楽しめる範疇で好きなものを追っていけたらいいのにね。
このあたり、人の意見との付き合い方として力ちゃんが言っていたことも関連してくる気がするな。
「色んな人の話を聞いて、しかしつかず離れず。
信じすぎず、信者にならず。
噛みつかず、疑いすぎず。
絶妙な距離感を取っていくと俯瞰で見られるようになれる」
これ、まるで格言のようなテンポ感でぽんぽん言ってくれたので、真っ直ぐ響いた。
この発言のあとに「おれって結局最終的にバランスしか言ってないな~」「バランス厨だよね~」と自嘲気味?に話していたけれど、そういったジョー・力一の偏りすぎていないバランス感覚が好きで推しているところ、あるよ。
どちらかに寄った発言ばかりだと聴いていてウッとなったり、重くのしかかったり、意見の食い違いに苦しむこともあるのかもしれないけど、そういうところがあまり無いような気がする。
なんかこういうこと言うと「耳当たりの良いことしか言ってないからね~」みたいにかわされるかもしれないけど。
だとしてもやろうと思って簡単にできるものではないんじゃなかろうか。いろいろ思案した結果バランスとった発言しているのだとして、変な間違いがなさそうな安心感がある。
自分の考えについて。
私個人としては、自分の考えは唯一無二のものではないという感覚がある。その点、相談者の方と考え方が近しいかもしれない。
この手の中にある自分の感想って、本当に私一人で生み出したものって言えるのか?私は自分のものだと思っているけれど、そっくりそのまま他の人と同じなんてこともあるんじゃないのか?みたいなことを考えがち。
ただ、相談者の方よりも、極端に考えすぎているというか。
この情報量の多い世の中において、純度100%自分の考えと言えるものなんてあるわけないだろっていう。私が思いついたものなんぞ、同じことを考えている人が100人や1000人、いやもっといるだろう、という気持ち。
何か思いついても、所詮n番煎じだろうって、いつも自分を疑ってかかっている。
だからむしろ、自分の感想を「これは私だけのもの、誰にも浸食されていない唯一のもの」と抱きかかえることに違和感がある。
でも、これを考えすぎると怖くて何にも表現できなくなりそうで危ういな。
どうせ他の人と同じこと考えてるだけだから私が言う必要ないかって考えを飲み込んじゃったり。他人から「どっかで見た感想だな」と思われるかもって怯えたり。
人の意見を垣間見て、あることないこと考えては自分で自分を窮屈にして、いつの間にか気持ちが引っ込んで何も出せなくなる。そうなると勿体ないなと思う。
矛盾してるかもしれないけど、どこかで自分の考えを大切にしたいという意識もあるようで、自分の中でワッと瞬間最大風速みたいな勢いで感情が溢れ出てきたら、どっかへ飛んで消えちゃう前にちゃんと掴んで握っておきたい気持ちはある。
力ちゃんが話していた「0.1秒最初に見た瞬間の電流のように走った自分の感覚は大事にしたい」ということなんだと思う。
コンテンツを見聞きして最初に自分から生まれ出た0.1秒の感情の煌めき?昂り?高まり?は大事にしていきたい。そして自分の0.1秒をベースに、タイムラインを好きなものや素敵なものへの感想で埋めていけたら楽しいだろうな。そうして楽しめていけたらいいな。
そうはいっても、大事にしたい最初の一瞬の感情の煌めきにさえ、心の声が疑ってかかってきて邪魔してくることもしばしば。
「お前が大事にしようとしているその考えって、別に大層なものじゃないよ」「別に捨てても構わないものだよ」って、どうしてもよぎるのが厄介。
好きなコンテンツに対しても、この変な自我が邪魔して素直に感想書けなかったりする。
今も書きながら葛藤と闘ってる。何で書いてんのって。何のためにこんなしょうもないことをって。あとで自分で読みたいから書いてんの!と邪念を振り払っている。
結局自分の感想って、推しの目に届けたい気持ちで書くものもあるけれど、大半は自分の頭や心の整理整頓のために書いているもの。
最近は、何百人何千人と同じことを考えていようが、思っちゃったもんは投稿しちゃお~!と軽い気持ちでSNSに言葉を放り投げている。
特に今回のラジオを聴いてからは、自分の気持ちに折り合いがついたというか、吹っ切れた感覚がある。
本日時点の私の感想を残しておいて、この先自分のタイミングで見直した時に、書いた当時の自分と感想の持ちようがどう変わったか確かめるのも興味深いなと思った。
私の感想に、私が一番興味あるので。
感想をつぶやこうと、思いつくままXの下書きにぽそぽそと文章をしたためていたのだけれど、想定を超えて長くなり収拾がつかなくなった。
このままXに放流するのはしんどいので、違う媒体に書き留めておくことにした。
そうして初めてnoteを書いている。
勝手が分からない。
書いてみて、なんか違うなと思ったら他の媒体に移るかもしれないし、案外良いかもとなったら、Xで書くにはボリュームが突き抜けてしまった感想をこちらに書き連ねていくかも。
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