絶望に関して

とりとめの無い考えが素敵なものに思えて全てを書き記しておきたいけれど、書こうと思った頃には消えてなくなってしまう。
躁状態みたいになって思いつく、すぐに忘れてしまうことなんて、くだらないことなのだ。
くだらないことで人生が、埋まっていく。

最近、絶望に改めて気がついてしまうことが増えたなあ。
すごく昔に初めて絶望に気がついたときはこれからどうして生きて行けよう、と思った。
今となっては、絶望は見ないよう務めるしかないことを知っている。
本当は、誰も助けてなんかくれないこと。本当は、誰も愛してなんかいないこと。本当は、本当に独りぼっちなこと。本当は、死んでも何も変わらないこと。

毎日、絶望を見るまいとなにかに熱中してみたりして、気を紛らわす。
狂っている。今日もこうして夢中を貪る。

ふつうがどういうことなのか知らないけれど、私の根底に絶望がぎらつくたびにあたしは凡人だけど、ふつうにはもう戻れないのだとよく解る。その度に惨めで、首を吊ってしまおうと思う。

よくある話だが、あたしは他人からの評価に自分の価値づけを依存している部分があるのだ。他人とのかかわりの中で傷つくのだってそのせいだ。ばからしい。凡才で、愚かだ、本当に、自分は。

人生が罰なのだと思わないと生きていられない。そんなこと言ったら、悪いことにしか目を向けないからだ、と言われるか、もしくは、抱え込まないで相談して、みたいなことを言われるだろう。(果たして、相談したら、どうにかしてくれるのか……)そう言う人たちは、きっと正しい。
早くいなくなりたいと言うことすら許されずに、生き続ける。
いつか決行する時は、1発で決めよう。

こんな鬱々とした言葉でしか話せないあたしが、「メンヘラ」とかいうカテゴリに当てはめられてしまうのも、仕方ないなと最近は思う。
昔は、あたしがメンヘラなんじゃなくてそちらが何も考えていないのだ、と思っていたけど、"メンヘラ"にカテゴライズされること、あながち間違っていないような気もするし、どうでもよくなっちゃった、そんなのはあたしの美学を喪っているかな。それともこれは新たな美しさなのか。

ひと握りという言葉って、きれいだ。浜辺の砂を連想する。あたしがひと握り、になれる日は来ないと思うけど、別にいい。特別な人間になんてなれなくていい。そんなことを言いつつも、あたしのこと、知りたくなってよ、と思う。なんか、全然、諦めきれてないね。ダサいね

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