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ぶひぶひの母

幼時、思い出せばその頃から母の気は違っていた。

山深い山村に一人嫁に来て、親類親戚誰も味方が居らず、毎日のように舅の二人に虐げられた母は、産んだ僕に乳を与えている時分にはもう弱り果て参ってしまっていたらしく、その時には、どうやら自分の生んだ子を育てられるような事情の中にはいなかったようだ。

子を育てられなくなった母の代わりに、僕を育てたのは祖母だった。祖母は母から僕を取り上げると、僕を溺愛し、一方で母を僕から斥け、母から隠し、こちらをうかがい知るような母の眼差しを睨みつけ、百姓女の大きな背中の後ろに僕を秘匿し続けるのだった。

母がそんな生活をしているのを尻目に、田舎の惣領息子であった父は何も考えようともしない、考える態度すら取ろうとしない無知同然の生活を送り続けていた。夏になれば庭の畑に出来る、見栄えも味も良くないスイカが大雑把に切られたのをむしゃぶり、実の赤みを残らず吸いきった皮だけを残して、また畑仕事に向かう父。

そのような父を嫌悪し、祖母の背中の後ろから侮蔑の目線を送り続けた。大きくなってあの大柄にも負けなくなったら、あれを打擲して懲らしめてやるのだとその時から誓っていた。

誓いは時をへだてず恨みとなり、次の夏には形を成した行いとなり、父と祖父が生業として育てていた作物の芽を、山の動物の仕業に見せかけて、畑一面ぶん踏みにじって根絶やしにしてやった。祖父も祖母も父もその山の動物の仕業だと思い込んだ。真犯人の僕は祖母の背中でほくそ笑むように隠れて笑った。すると気違いの母がその日からぶひぶひと鼻を鳴らすようになり始めた。その仕草は猪と瓜二つだった。猪は僕が畑を荒らしたように見せかけた山の動物に他ならなかった。母は存在しない犯罪人の姿を、家族の前でとって見せたのだ。

畑を荒らした当人が、気違いに乗り移って自分たちをあざ笑っているのだと祖父は母を平手で思い切り打ち付け続けた。父は怒りに涙を浮かべながら叫び、お前など嫁にしたのがそもそもの間違いだったと糾弾した。それでもぶひぶひと言い続ける母は床板の匂いを嗅ぎながら僕に近づこうとしてくる。祖母の背後に隠れながら僕は気づいた。母は僕の行いに気がついでいるのだ。

それから数年を経て、母は冷たい最後の眠りについた。仇が死んでなお嫌味を言い続ける祖母の背後から、僕は読誦を受ける死体の顔をうかがい続けた。いつ僕にまたぶひぶひといってくるのだろうかと身構え、もうぶひぶひとは言ってくれないのだと悟ると不意に寂しさがこみ上げてきた。今思えば、僕を叱ろうとしてくれたのは家族の中で彼女しかいなかった。母は気が違ってもなお我が子を育もうとしていたのだとその時気づいた。

祖父がこの世を去り、祖母もそれに続いた時には、もう僕は高校を卒業して仕事のために村を出ていた。一人村に取り残された父は、寂しく廃れていく山あいの家の中で、村と同じように死んでいくしかないのだろう。

あの時母を糾弾した報いだと思いつづけた。本当に悪いのは僕だったのにも関わらず。

先日、養老院から父が息を引き取った旨が伝えられた。僕は適当な法要を父に与え、遺骨を墓に仕舞ったあとは、自分はこの墓に入らぬように手続きをして村を去った。
母もあの墓に眠る。母は今どうしているのだろうかとふと脳裏によぎってしまった。
そんな帰りの車中でふと山道に猪を見かけた。ひょっとしたら、母は猪にでも生まれ変わったのかもしれない。そんな考えを横切らせながら猪を追い抜いていった。バックミラーにこちらを向いた猪の視線が映り続ける。その眼差しがじっとこちらを見続けた時、初めて本当にあの行いを咎められた気がして胸が痛んだ。

だがもう遅い。僕は郷里と家を忘れるしかない。猪の姿が遠ざかっていく、もう見えなくなりそうなあたりでその足元にうり坊の影を見た気がした。猪の姿はその時完全に消え去った。

ただ一筋、頰に涙が伝った。

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