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テロの余波を受けて②



1998年2月某日-


Come on and rock me Amadeus
Amadeus Amadeus, Amadeus...


いきなり何のこっちゃだが、私はウィーンの街にポカンと立ち尽くしていた。

「わぁ...」

『ロックミーアマデウス』を唄ったファルコがコカイン中毒で死亡した。オーストリアでは国葬が行われたのだ。

人々がすすり泣き、町中到るところで『ロックミーアマデウス』が流れている。


あまりの大勢の人々が感情的になって外に集結しているのを見た時、最初

「あ、テロだ!」

と心臓がバクバクドキッとして、とっさにどこかに身を隠そうとした。それを見た、一緒にいた友達が大爆笑した。

「これだからアラブ帰りは!」。


不慣れな石畳の道を歩いていると、危うく馬車にひかれそうになった。

オペラ座へ向かう観客を乗せた馬車だ。しかも中からこちらをちらっと見た紳士はシルクハットを被っていた。

「ひぇー!野菜の荷台を引っ張るロバの国から、今度はシルクハット紳士を乗せた馬車の世界に来ちゃった!」


とはいえ、実はウィーンに住む訳ではない。私が住むのは、その"隣"の国だった。

先にちょっとウィーンに住む日本人の女友達の所に寄ってみたら、たまたま歌手のファルコの国葬が行われていたのだ。

後でじわじわ気づくのだが、日本では"一発ヒット野郎"扱いのファルコは、チェコとオーストリアでは超カリスマ的な大スターだった。


大群がぞろぞろ大通りを歩いている。

「ねえ本当にテロじゃないのよね? 誰も発砲しないよね?」

友人子は呆れたように首を振り答えなかった。近くの商店からも大音量で流れる『ロックミーアマデウス』が響いていた。

「Amadeus Amadeus, oh oh oh Amadeus...」

             🎩


1997年12月19日付けのヨウコさんからの手紙-


『お元気ですか?

悲しい事件がルクソールで起きてしまって、ばたばたしていたため返事が遅れてごめんなさい。

ロンドンからの手紙と日本からの電話ありがとう。

エジプトを発つ日に見送りに行けなかったことを申し訳なく思っています。お変わりありませんか?

あの事件からもう一ヶ月経ちました。

○○旅行会社の半数以上の日本人ガイドは一時帰国をしたり、他の国へ旅立ったりして、今年は大変寂しい新年を迎えそうです。

先週、私は再びニューヨークへ行って日本食や外国食を買い付けて来ました。

でもこの仕事もそろそろなくなるようです。

Loloさんも久しぶりに日本で年越しをするのではないですか?私も長らくお正月料理を食べていないので大変恋しいのですが、

今のところ帰国する予定はありません。(経費がかかるので...)

彼もその後イタリアへ行く手配をしていましたが、事件後たくさんのエジプト人が出国するのを防ぐため、どこの大使館もエジプト人に対してビザを出すのを渋っており無理のようです。

事件当時は私もパニックになっていましたが、今はだいぶん落ち着いてあまり考えないことにしています。

なかなか取れない長い休暇だと思って、二人でインドにでも行こうと考え中です。

どうかLoloさんもまた是非とも近状をお知らせください。ご家族と共によい新年をお迎えください。(漢字が間違っていたゴメンネ!)

○○ ヨウコより (←○○は漢字の苗字。あとで思えばどの手紙も全部日本の苗字で書かれていました)』

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1997年8月-

夫のアムルの悪友が、ヨウコさん不在時に遊びに来て、貴重品の入った彼女のスーツケースを寝室のベランダから地面に投げ落とし、スーツケースごと盗んだ。

アパートの番人が一部始終を目撃していたために、そいつを逮捕させられたが、しかし親の賄賂であっさり釈放された。


そのたった一週間後...

「あいつだ! 泥棒野郎がいる!」

ヨウコさんは息をのんだ。

彼女が指を指した先には、(若い時のイモトアヤコ激似の)日本人小娘といちゃついているエジ男がいた。

ヨーロッパ系の外見(色白)で、ピタシャツ、エドウィンのスキニージーンズにウェスタンブーツ姿だった。見るからに悪そうな男だ。


まあ、ア然だ。

本来なら刑務所にいるべき犯罪者が賄賂でとっとと自由になっただけでもびっくりなのに、華やかなナイルヒルトンのクラブのラウンジのソファーに堂々と踏ん反り返って座っている。

なんてふてぶてしい...

泥棒野郎は口にマルボロをくわえ、大人しそうな日本人の女の子と仲睦まじしく、デレデレよろしくやりながら、バドワイザーを飲んでいた。ちょいちょいケタケタ笑っている。


かーッと頭に血が上ったヨウコさんは、ずかずか向かって行った。そして泥棒野郎の胸ぐらをぐいっと掴み怒鳴った。

すると、驚いた周囲のエジプト人たちがすぐに寄って来て、「まあまあ」ととりなした。

泥棒野郎は大声で早口で怒鳴り返してきた。奴の連れの日本人の女の子は「えっ!? 何、何!?」 と困惑して怯えた顔をしている。

ヨウコさんがさらに怒鳴ろうとすると、野郎は悪態をつき女の子と肩を組んでクラブを出て行った。

「あいつめ! エジプト人のフィアンセがいるくせに! 日本人女なんて全然興味がなかったくせに、金を持っていると分かったものだから、日本人女をひっかけるようになったんだ!ああ腹が立つ腹が立つ!」。

「気持ちはよく分かるけど、ねえ落ち着こう」

私がなだめると、ヨウコさんは泥棒野郎の座っていたソファーを思いっきり強く蹴っ飛ばした。

「なんであんな奴がすぐに刑務所を出て、のうのうと生きているわけ!? 本当にこんな国最低! エジプトなんて最低最低! 絶対こんな国で死にたくない!エジプトだけでは死にたくない!」。


"エジプトだけでは死にたくない"は前々からよく口に出していた。

でもいくらエジプト人に嫁いだとはいえ、まだ20代の若い女性がそんなことを頻繁に言うのは、ちょっと不思議といおうか違和感があった。

普通はエジプトの悪口や愚痴をこぼすにしろ、

「10年後にはアメリカに住んでいたいな」だとか「オーストラリアで子育てしたいな」

など近い将来の夢や願望を呟くものじゃないだろうか。

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その数日後、ヨウコさんは食品の仕入れのためまたニューヨークに飛んだ。

「絶対、絶対私がいない間、誰も家に呼ばないでよ!」

彼女は夫のアムルに何度も念を入れた。彼は素直に頷いた。

そして約束を守った。実際に男友達誰ひとり、自宅に連れて来なかった。そのかわり、妻の女友達らには片っ端から電話をかけた。

私にもかかってきた。

「ヘイ、今夜一緒に飲みに行かない?」。

「...」

もちろん断ったが、その夜マリオットのハリーズパブでアムルがアジア人の女の子をナンパしているのを見かけた。

私が声をかけても、彼は全くうろたえなかった。むしろニッコリ微笑んできた。「ヘイ、元気かい?」


この件をヨウコさんに言おうかどうか迷った。でも言わなかった。

知り合いや友達のエジプト人夫が、妻の目を盗んでほかの日本人女性に連絡をしてくるというのは、珍しい話じゃなく、よくあることだった。

道徳的に問題だが、とにかく本当によくあることだった。

普通は浮気をするにしても、妻やカノジョと関わりあいのない女性をひっかけるものだが、エジプト人はちょっと違っており

例えばある旅行会社のスタッフは、観光ガイドをする日本人女性と婚約をしていたが、彼女が仕事(ツアー)を組んだ添乗員の女性の泊まるホテルの部屋に夜ばいをかけようとした。

頭が悪すぎる。

このことはガイドのフィアンセに即効バレた。

一体どういうことなのかな、やっぱり一夫多妻の概念がどこかにあるからかなとつい疑ってしまうのだが、とにかくこういうことはとても多かった。

だから今更感があったのと、もうそういうものなんだという諦めがあったのと、

そしてヨウコさんの性格を思うと、キィーとブチ切れ大暴れするのが目に見えている。

泥棒野郎の件でまだショックも受けていたし、とりあえず何も言わないでおこうと思った。

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そうこうするうちに、私はエジプトを離れた。一旦日本にまた戻り、そしてチェコへ飛んだ。


エジプトからまめにしょっちゅう手紙をくれる人物は二人いた。ひとりは外国人でちょっと置いておき、もうひとりはヨウコさんだった。

頻繁にエジプトから配達される彼女の手紙を読み、エジプトの状況も含めもろもろ手に取るように把握できた。


11月にルクソールで大きなテロが起きた。すぐに日本人ツアーすべて、見事にすべてキャンセルになった。

またスイス人と日本人が殺された事件を受けて、外国人ツアーもほぼなくなった。

(↑もし被害者がまたよその国の観光客らだったら、日本人ツアーだけはしれっと出続けていたとは思う)


エジプトは淋しくなった。

カナエさんのご主人はまた外国の大学に赴任し、多くのエジプト人日本語ガイドも湾岸諸国に出稼ぎに行った。


そもそも、大半の国民は観光業だけで生き延びているようなものなので、その観光業が駄目になると国内にはもう仕事はないのだ。

独身の日本人ガイドもみんなエジプトを去った。やはり彼らに未払い分のギャラ全額寄越さない旅行会社は多かった。

ヨウコさんもガイドの仕事がゼロになり、彼女の予想通り、このタイミングで海外食品買い付けのバイトもなくなった。サニースーパーの経営が芳しくなくなってきていた。

それまではカイロ市内には他にインターナショナルスーパーがなく、日本人経営者の岡本氏のサニースーパーの独占だったが、

同業者らの横やりが増え経営しにくくなっていた上、他にもっと近代的で大きなアメリカ系のオシャレなスーパーなどが誕生し始め、サニースーパーは以前ほど儲かっていなかった。

はっきり言って潰れるのが目に見えてきており、ヨウコさんの外国食品仕入れの海外渡航依頼もぱたっとオファーがなくなった。


ヨウコさんとアムル夫婦は崖っぷちだった。インド旅行も結局無理だった。エジプト人のアムルには観光ビザも下りなかったのだ。

とにかく海外旅行はさておき、食品買い付けもなくなり夫婦の収入源はばったり途絶えた。

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↑ちなみに、カイロのサニースーパー経営者だったの岡本氏

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ここでやっと、今までプラプラばかりしていたアムルが目を覚ました。

「とりあえず夫の僕がどこか出稼ぎに行かねば!」

彼がそんな男気のあることを発言したのは初めてだ。


アムルは片っ端から様々な大使館にビザ申請を提出した。

えり好みせず文字通り数多く出せばどこかの国の大使館はビザ発給してくれるかもしれない、と。


ところが状況が厳しく先進国は全滅。インドネシアもシンガポールも駄目。

ちなみにモスリムだけどアラブ人が好きではないため、だから湾岸諸国には申請をしていない。


最終的に南アのビザだけが下りた。南アの外資ホテルでのウェイターの仕事だった。

まずアムルだけが最初に渡航し、生活が落ち着いたらヨウコさんを呼ぶことになった。

おそらく軍資金として、彼女が自分のまとまったお金をいくらか渡したのではないか、と思うが彼はエジプトを去った。

私の手元に届く、ヨウコさんの手紙の文面はこのあたりから情緒不安定なものになった。

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『Loloさん

お元気ですか

そちらは雪景色で毎日気温がマイナス0度以下とのこと。この猛暑の砂漠のエジプトに長年住んでおられたから、身体が厳寒についていけず、さぞかし大変でしょう。

私の方は日本人の友人は全員エジプトを離れてしまい、誰も遊ぶ人も電話でおしゃべりする人もいません。

たまに姑に電話をかけても、慰めてくれるところか

"息子が外国に行って寂しい、寂しい。なんて私は可哀相な母親なんだろう"

と大声で愚痴をこぼされるだけ。息子の嫁が日本の両親と全然会えていないことだとか、ひとりぼっちでがらーんとしたアパートにいるなんて全く思いやってもくれません。

こちらからそれを言おうものなら、途端に上から言葉を被せられてしまいます。

本当に行くところもやることも会う人もいなく、毎日朝から晩までアパートのベッドの布団に包まっています。まるで冬眠中の熊さんのようです。

東欧はまだ行ったことがないので、ぜひ遊びに行きたいです。いますぐにでも飛行機に乗ってLoloさんの所に飛んで行きたいです。

だけどアムルからいつ連絡が入るかわかりません。

彼からは相変わらず音沙汰がないのです。南アに行った後一回も手紙も電話もありません。

だから彼が生きているのかどうかも分からないですし、悪い怖い想像ばかりしてしまいます。

いっそう私が南アに行っちゃおうかとも思いますが、とにかく本人が一度連絡をくれないことには、私も身動きがとりにくいです。

東欧に遊びに行っている間に、もしもアムルがこのカイロの自宅に電話をかけてきたら、とも思うし何か本当に向こうでトラブルに遭っているのかもと思うと心配で心配でたまりません』。


この五日後に届いた手紙も

『アムルからはまだ連絡が入りません。最近、姑からかかってくる電話も増えました。

"息子から連絡が入らない、そっちには電話がかかってきたか? ああ心配だ心配だ"。

あまり大声でわめかれても、いらいらします。

でも確かに、もしかして悪いことをして刑務所にいるのではないか、大きな事故に遭って病院に入っているのではないかなど悪いことばかり、姑だけでなく私もついつい想像してしまいます。

カイロの生活は何も変わりません。どこからも誰からも電話が入らず、家でひたすら眠り続けています。

ああやっぱり東欧行きたいな。プラハも見てみたい。行っちゃおうかな。決心したらすぐに連絡入れます』。

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何度かお互いに国際電話はかけあった。ただ通話料が恐ろしく高いので、いつも駆け走の短い会話しかできなかった。

もしこの時代にせめてSkypeがもう生まれていたら、彼女のノイローゼを救ってあげる手伝いぐらいできたかもしれない。

「ヨウコさん、大丈夫かなあ。相当参っているようだしなあ」

私は心配だった。あの一切太陽の光が差し込まない、暗くて陰気なアパートに一日中篭っている...

しかも訪れるたびに、なぜだか私が悪寒がして、気分がどうも悪くなったアパートだ。

家にずっといてもエジプトのテレビはどうしようもなくつまらないし、何もやることがない。

かといって外に出ても、貧民街だったのでアムルがついていないと危険だ。

彼女の住むスラム地域では、外国人は石を投げつけられるのも当たり前で、子供の集団には囲まれ、「やーいやーい外人外人!」 とストーキングされる。

街中を一人で歩いても、いろいろな人に絡まれストレスが溜まるだけ。

私のように学校に通った経験のないヨウコさんには、カイロの街では外国人の友達は皆無で、親しかった日本人はみんなもうエジプトを離れていた。もともと女のグループでつるむタイプではなかったけど。


「身動きが取れない罠にかかった状態なんだな。相当精神的に追い込まれて、まともな判断が出来なくなっているな。

アムルのことはとりあえず放っておいて、彼の母親に伝言でも残しすぐにでも辛気臭い家から離れ、どこか旅行か日本帰国でもしないと、ますますメンタルがやられる...」

そう思った。だけど本人に言っても「アムルの連絡だけでも待たないと」と突っぱねる。

もしかしてやっぱりヨウコさんは、自分のお金を結構渡してしまっていたのかも知れない。

もし本当に二人で南アにしばらく住もうと計画していたなら、現金持ち出しのあれこれを考え、アムルがエジプトを発つ時に彼女の貯金の半分ぐらい、もしかしたら渡していた可能性はある。

そうなるとますますアムルの連絡に執着してしまうことはあったかも知れない。

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いろいろヨウコさんのことが心配だったが、私は私でこちらも新しい国での、新しい生活と仕事に慣れなければならない大変だった時だった。

しかもあまりの寒さで持病の喘息が出てしまっていた。

湿度がゼロのエジプトではほとんど全く起きなかった喘息発作が、チェコで突然起きたのだ。これは経験者しか分からないが、一度発作が始まると呼吸が出来なくなり死ぬかと思うぐらいだ。


しかしその日の夜は珍しく咳が全く出なく、体調が良かった。ホッとして熱いお茶を飲んでテレビをつけると、またアメリカのドラマが流れていた。

朝から晩までアメリカの番組ばかりが放送されていた。チェコ人はそれまで西側のドラマや映画を見たことがないので、口をぽかんとし真剣に見入る。

豊かなアメリカの生活をガンガン見せて、「アメリカはいい国ですよ」と洗脳していくのだな、と分かった。

適当にチャンネルを"ガチャガチャ"回したが、コマーシャルもどれもこれもアメリカ製品のものばかりだった。


ちなみにこっち(プラハ)のテレビも真空管テレビだった。電源をオンにしても、画面に映像が現れるまで15分ほどかかる。

窓の外を見ると、まだ東ドイツの『走る段ボール車』と呼ばれていたトラバントが走っているのが目に入った。なるべくチェコの警察はトラバントの走行を取り締まってはいたが。


その時、電話が鳴った。

受話器を取った。エジプト在住のある日本人女性からだった。ヨウコさんではない。

よく知る女性だったが、彼女から国際電話がかかってきたのは初めてだ。なんだろうと思った。女性が興奮といおうかヒステリー気味でうわずった声で言った。

「あのね、あのね。ヨウコさんが死んだの。殺されたの」

....

耳を疑ったが、受話器の向こうの女性は奮えた声で、

「ヨウコさん、殺されたのよ...」

「はっ!? 殺された!? 犯人は誰なの!?」

「犯人はね..,」


居間のテレビからは皮肉にも、ビージーズの『stayin alive ( 生き続ける)』が流れだした。『サタデーナイトフィーバー』の映画が始まったのだ。

(↑これはフィクションではなく、本当です。あまりにも皮肉過ぎるタイミングだったので、一生忘れられません)

「ええ!? 犯人!? まさか!」


つづく


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↑カイロのマリオットのガーデンカフェ。よく二人で行きました。

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