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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話〜腰椎分離症発症編〜

先日風俗店のバイト帰りに、何の気なしにTwitterで呟いたツイート(https://twitter.com/zakuwara06/status/1522152891577819136?s=20&t=BEis1Qm3Pmo0_op_fbpaPg)に対して、思いのほか「興味深い」という反応が多かった。「ぜひ読みたい」という声は個人的に嬉しい物であり、そういった声に応える為に、そして私のロシア留学を整理する為にも、私の半生を振り返ってみたいと思う。
時系列順に、いくつかのパートに分けて綴るので、ロシア留学をピンポイントでご覧になりたい方は、追って投稿する別の記事まで是非お待ち頂きたい。ただし少々先になると思うので、よろしければ私の遅筆にお付き合い頂ければ幸いだ。

私は1995年の2月にこの世に生を受け、比較的不自由のない幼少期を過ごしてきた、と思っている。最近では好まれない言い方かもしれないが、内孫の初孫で長男であったし、両親は共働きであったので、親代わりの祖父母には大層大事に育てられた。ともすれば太い実家と言えると思う。
ただそれゆえにやや肥満ぎみに育ち、中学生になるころには身長160cmの体重72kgと、横に大きい子供になっていた。とは言え若い男の子でもあるので、おデブだとは言え年相応に走り回りもしていた。当然体に対する負担もかなりの物であったようで、とうとう第五腰椎分離症という形で、ツケを払わねばならない事態となった。腰椎への負担が大きすぎたのだ。

第五腰椎分離症とは、脊椎同士を支えあう骨が文字通りに骨折し、分離する症状である。グーグルなどで検索してもらえれば整形外科など病院ホームページにてその解説を多数閲覧できるので、気になる方は各自で調べて頂ければと思う。

さて、この腰椎分離症というのはなかなか厄介なケガであった。完治の例は少なく、治る可能性は5%以下だと医者から言われた。
このケガのいやらしい点は、患部が腰椎という点に尽きると思う。腰椎同士を支えあう骨が折れるわけであるから、神経を本来保護するはずの腰椎が不安定になり、ちょっとしたきっかけですべりでもすれば、神経を傷つけ、麻痺などの後遺症が残る可能性のあるケガだったのだ。そうなれば背中にメスを入れて、離れた骨同士をプレートで固定する手術が必要となってくる。

思春期も始まったばかりの自分にはかなり精神的にこたえる事件であった。
両親もかなり衝撃を受けたのではないかと思う。しかしそんな中でも幸いな事に、主治医の先生は整形外科の高名な方であった。そして何より、私の父もまたその少年期にお世話になった方であった。まだ当時の私は13歳と成長期でもあったことから、大人と比較しても治療の見込みがあり、絶対安静にして骨同士が自然にくっつくことに掛けてみよう、ということとなった。反対する理由も是非もなかった。

骨折では、経験のある人ならなおのこと分かるだろうが、石膏を使って患部を固定する。私の場合は患部が腰部であったので、腹巻のごとく石膏を胸から腰に掛けて巻き付け、固定したのだった。ここで大変だったのはとにかく風呂に入れないという事であった。折しも時期は7月であり、夏の暑い頃に1ヵ月~2ヵ月風呂に入れないというのは、本当にしんどいものがあった。思春期という精神的に多感な時期でもあったので、日に日に体臭が増していく現実は、今思い返しても非常に辛かったし恥ずかしかった。

ともあれ治療法としては石膏で腰部をガチガチに固定し、トイレと食事を除いて、ベッドで上向きとなりひたすらじっとするというものであった。
この間の娯楽という娯楽は、ゲームかテレビくらいなもので、朝起きてから夜寝るまでずっとPSPで遊んでいた。療養が始まってしばらくはゲームし放題の状況に喜んではいたが、しかし1週間も経てば、朝から晩まで上を向いてゲームばかりという過ごし方に飽きが来るのであった。
次に見つけた娯楽は、読書であった。といっても中学生が読む本なんてものはライトノベルや漫画ばかりなもので、このころに一気にオタクになったな、と今振り返ってそう思う。

石膏を巻いて1ヵ月ほど経ったころ、腹部が大変にグスグスになった。こぶしがまるまる一つは石膏と腹部の間に入るようになったのだ。
石膏で腹を固定すると、どうしても食事の量が減ってしまう。食べれば食べた分だけ腹が膨れて窮屈になり、痛くなるからだ。その為に日々の食事量はどんどん減り、石膏が患部の固定をできなくなるほど痩せたのだ。これはいかん、と再び病院に赴き、石膏の巻きなおしを行った。ニューディール石膏だ。この時、体重は10kg減少していた。72kg→62kgへの大幅で急激な減量だった。
肥満は悩みの種であり、ケガの原因でもあったわけだが、まさしく「ケガの功名」な減量であった。不健康な痩せ方ではあるのだが・・・。
肥満体型に悩んでいる方は、石膏を腹に巻き、1ヵ月間そのまま夏場を過ごすというのも、案外いい方法なのかもしれない。確かな実績はここにある。

ともあれ、石膏も巻きなおし、さらに1ヵ月を寝たきりで安静にしていた。
相も変わらずダラダラとPSPで遊び、たまに漫画かラノベを読む1日が続くのであった。
しかしそれだけであったかというと、それは違ったのだった。思春期なりに、自らの人生を見つめるいい機会であったので、まだ幼いなりに人生というものを考えたのだった。

完治する可能性の低さ、将来にわたって慢性的な腰痛を患う不安、スポーツが活動的にできなくなるかもしれない不安、万が一滑った腰椎が神経を傷つけ半身不随や手足にしびれの残る恐怖・・・。そういった負の思考、ネガティブな気持ちが常に付きまとい、「果たしてこの先どう生きたものか」と悶々としていた。この時に励みになったのは、アニメや漫画の熱い感動的セリフ・・・などではなく父の言葉であった。
先ほど少し触れた様に、父も少年時代、整形外科の先生のお世話になっていた時期があった。いや、少年時代全てでお世話になっていたといっても過言ではないかもしれない。

父には四肢のうちのとあるひとつがない。これは書くべきことかどうかわからないので詳細な部位は伏せたいと思う。骨肉腫を発症し体のあちこちに転移し、切っても切っても毎年のように新たな転移が見つかる為、原因となる部分を切除したのだった。発症が13歳、切除が16歳であったと聞いている。当時の私の年齢と重なるものであった。そんな父は私に父なりの生き方への答えを教えてくれた。その言葉は今でも私の考えの源流になっていると思うし、職業観や仕事への姿勢に大きな影響を及ぼしていると思う。

ではどのような言葉を私に掛けてくれたのかというと・・・


続きはまた今度。


あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
近々この続きを書きたいと思います。

ちなみにモスクワ留学を決めて、現地で開戦を知って泣きながら帰ってくる話に至るまでも、いくつかエピソードがあります。かいつまんで以下に。
高校受験失敗、文転浪人と国立大学不合格、ゼミの調査旅行で無断で風俗に行って童貞卒業、サークルの後輩に手を出しかけて救急車で緊急搬送、就職失敗からの就職浪人、血だらけ銀行マン救出とその銀行からの内定と内定辞退、地元金融系企業への就職とメイド喫茶がきっかけの転職、メイドに惚れてケツ追っかけて大火傷などを経て、ロシア留学の決意となります。

そしてモスクワではコロナに罹患し生死の淵を彷徨い、完治したと思えば戦争勃発とそれによる帰国便の消滅、片道20万円の第三国経由の帰国というハプニングがあります。

モスクワ編は割と後になるやもしれませんが、どうぞお待ち下さい。


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