【映画】愛のむきだし

あらすじ

クリスチャン家庭に生まれた男子高校生の本田悠は、優しい神父の父・テツと2人で暮らしている。ある日、テツは聖職者でありながらカオリという愛人をつくり、彼女に夢中になっていく。だが、カオリがテツのもとを去ったことでテツの性格が豹変し、悠に毎日「懺悔」を強要するようになる。悠は父との関係を守ろうと「懺悔」のためにわざと罪を作るのだった。

次第にその行為はエスカレートし、悠は盗撮魔となってしまう。テツにその行為を「変態」と殴られ怒られたことで、漸く「神父」のテツが「父」として接してくれたと思い喜ぶ。

ある日、仲間内の罰ゲームで女装していた悠(サソリと名乗る)は、不良少年の大群を叩きのめす女子高校生の尾沢洋子と出会い、生まれて初めて恋に落ちた。そして洋子も、共闘してくれたサソリに恋をする。

数日後、カオリと再会したテツは突然「神父をやめて結婚する」と悠に言い出し、彼女の連れ子を紹介する。なんと、それが洋子だった。洋子はサソリの正体が悠だとは気付かず、悠を毛嫌いする。ますますカオスなこの映画、でも観ている方は面白い。

その頃、謎の新興宗教団体「0(ゼロ)教会」が世間を賑わせていた。教祖の側近・コイケは、悠とその家族に近付き洗脳しようとする。彼女は洋子に自分がサソリだと思わせ、さらに事態は混沌とする。洗脳された洋子の心を取り戻すべく「0教会」に乗り込んだ悠は・・・。

感想

約4時間という凄い長さの映画を観たのは初めてだったが、引き込まれるようで、笑って泣いて、なんとも言えない虚脱感に襲われた。私は日本の俳優さんをあまり知らないし、一昔前の映画だけど、この俳優陣でなければ最後まで観れなかったと思う。

このドタバタ劇には様々な少年少女が登場するが、彼らに共通するのは「親から愛情を与えられずに育ち、その空虚感を埋め合わせるために変態行為、暴力、宗教などに走る」ということである。
彼らは最初からおかしいのではなく、育った環境や愛に飢えたことで少しずつ歯車が狂ってしまったのである。だから、彼らが出す答えやこれからどうなるのかを夢中で追いかけた。

私がこの映画の中で気に入ったのは、悠が「罪作り」のためにつるんだ不良たちが、根が素直でいい奴ばかりだった点だ(法に抵触することはしているけどそれは別の話)。悠の性格もあってか、受け入れられ尊敬されている。
彼らの出番は最後までコンスタントにあるが、「愛に飢えた子」と「そうでない者」との区分けははっきりされていて、悠たちの狂気が際立っている。

私自身いわゆる「機能不全家庭」に育ったので、悠たちの思いは理解できたし、最後はなぜだか泣いてしまった。愛情の代わりに何かを求めていながら、本当は愛が欲しくて、でも愛が一番怖いのだ。
愛すると言うことがよくわからず、何をどうすればいいかわからない。だから極端になってしまうし、自分で自分を軌道修正できない。でも何かに没頭していたら、それが紛れる。
それが、悠にとっての「マリア」と「盗撮」、ヨーコにとっての「暴力」コイケにとっての「宗教」だっただけのことなのだと思う。

彼らはまだ若いが、このまま大人になってしまった姿が、カオリのように見えたが、役それぞれに象徴というか、意味があってそれを徐々に感じ取れるストーリーになっているのも4時間をあっという間にしている。
こんなにも長いのに、このシーンはなくていいんじゃないかと思う部分はあまりなかった。

ヨーコを洗脳から救おうとした悠は、ゼロ教会の襲撃に成功するものの「ヨーコを救う」という意志のあまりの強さから、今度は自分がおかしくなってしまう。

教会から解放されたヨーコは親戚の家で暮らすうち、自分の今までのことを客観的に思い出し、悠への愛を再確認する。そして悠を取り戻そうと彼の居る施設へ向かう。

施設で過ごす悠は自分を「女性のサソリ」と思い込んでいて、始終そのように振る舞い、あれほど愛して守ろうしていたヨーコのことも忘れてしまっていた。だが、ヨーコの懸命な叫びに少しずつ記憶を取り戻し「悠でサソリ」であることを思い出す。
騒ぎを起こし警察に連行されるヨーコの後を、悠は本来の自分になって必死で追いかけ二人は初めて「悠」と「ヨーコ」として愛を伝え合って映画は終わる。
もうここで私はボロ泣きである。愛にトラウマを抱えた人ほど泣いてしまうのではないだろうか。

この映画では、愛がどういうものかとか、何が普通かとか、暴力や宗教の是非などには触れていない。むしろ、その真逆のものを全力で描いていくことでそれらに思いを馳せることが出来る仕掛けだ。

レビューを見ると賛否両論あり、確かにこれは分かれそうだなと思うが、私は彼らの出した答えや辿り着いた場所が好きだし、これからも胸の奥底には狂気を抱えたまま愛をむきだしにして生きてほしい。

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