『日本霊異記』上 雷を捉えし縁 第一

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

「雷を捕まえてこい」という天皇の無茶振りに見事応えた家臣。しかし雷は恨みを募らせ、家臣の死後に再び姿を見せるが……

本文

雷を捉えし縁 第一

小子部栖軽(ちいさこべのすがる)は、初瀬の朝倉宮にて23年の間天下を治めた雄略天皇の侍者で、側近にして腹心の者であった。

天皇が磐余(いわれ)の宮に住んでいた頃、天皇と后が大安殿にて愛しあっていた時、栖軽はそれと知らず宮殿に入ってきてしまった。天皇はそれを恥じて、コトをやめてしまった。

その時、空に雷が鳴り響いた。そこで天皇は栖軽に「お前、あの雷をここへ呼び入れてこれるか」と命令を下した。栖軽が「お迎えしてまいりましょう」と答えたので、天皇は「ではお前、呼んでこい」と言った。

栖軽は命を受けて宮殿から出た。緋色の鬘(ツル草などを編んで輪状にしたもの)をかぶり、赤い幡桙(旗の付いた鉾)を持って馬に乗り、阿部の山田の前の道から、豊浦寺(とゆらでら)の前の道へと走って行った。

軽(かる)の諸越という街に行き着くと、「天の鳴神よ、天皇がお呼びであるぞ!」などと叫んだ。そして、そこから馬を引き返して走りながら「雷の神といえども、どうして天皇がお呼びになるのを断ることができようか」と言った。

帰る途中、豊浦寺と飯岡の間に雷が落ちていた。栖軽はこれを見て神官を呼び、籠つきの輿に入れて宮へ持ち帰り、天皇に「鳴神をお迎えしてきました」と言った。その時、雷は光を放って明るく煌めいた。天皇はこれを見て恐れ、たくさんのお供えを捧げ、雷を落ちた所へ返させた。

この雷が落ちた場所を、今は「雷の岡」と呼んでいる。これは、古京の小治田宮(おはりだのみや)の北にあるという。

その後、栖軽は死んだ。天皇は命令を下して、7日7夜の殯(もがり)を設けて弔い、栖軽の忠信を偲んで、雷の落ちた場所に彼の墓を作らせた。そこには柱状の墓碑を設け、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した。

この雷は(栖軽を)恨み、怒り、雷鳴を轟かせて墓碑に落ち、足で踏みつけた。しかし雷は、栖軽の墓碑が裂けた間に挟まり、再び捕らえられてしまった。天皇はこれを知って雷を放してやったので、雷は死を免れた。雷はショックのあまり、放心状態で7日7夜の間そこに留まっていた。

天皇の使者は、ふたたび栖軽の墓に墓碑を建て「生きても死んでも雷を捕らえた栖軽の墓」と記した。いわゆる「雷の岡」と名付けられた由来というのは、この話のことである。

雷を捉えし縁 第一 終

雑記

・雄略天皇の無茶振りに見事応えた忠臣小子部栖軽のエピソード。

・ふつう、天皇のプライベート空間である内裏へ入るには天皇の許可が必要であるが、この説話にはそれがみえない。雄略天皇のころはルーズだったのか、それとも著者の想像の範囲外か。

・奈良県飛鳥にある雷丘の命名起原説話とのこと。『日本書紀』雄略天皇七年七月丙子条にも同様の記事があるが、栖軽に命令を下す経緯が異なる(栖軽は腕力が強いので、試しに捕らえてこい、という趣旨)。

・『日本書紀』雄略天皇六年三月丁亥条によると、小子部栖軽(少子部蜾蠃)は、雄略天皇に蚕(こ)を集めるように命じられたとき、勘違いをして児(こ)を集めてきてしまう。雄略天皇は笑って栖軽を許し、代わりにその児を養育するよう命じた。よって少子部連の姓を賜ったという。

・「阿部の山田の前の道」とは、いわゆる山田道のこと。阿部から飛鳥へ抜ける緩いカーブの道で、現在の県道15号・124号線の一部がこれにあたる。

・軽は、現在の橿原神宮前駅周辺の地名。

・『霊異記』は仏教説話集の筈だが、この説話に仏教の要素は無い。文学大系本の注釈には「天皇への忠誠が死後の誉となったという因果談」であり、広い意味で「善悪応報」の説話であるという。どうなんだか。


以上


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