『日本霊異記』上 三宝を信敬しまつりて現報を得し縁 第五

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

大部屋栖野古(おおとものやすのこ)は仏教を厚く崇拝し、天皇や聖徳太子に仕えた。そんな彼は死に瀕して不思議な体験をするが、それは仏教を敬った功徳によるものだった。

本文

三宝を信敬しまつりて現報を得し縁 第五

大花位(だいけい。古代の位)大部(おおともの)屋栖野古(やすのこの)連公(むらじのきみ)は、紀伊国名草郡の宇治の大伴連らの先祖である。その人となりは清廉で、仏法に帰依していた。
以下に述べるのは屋栖野古の伝記である。

敏達天皇の時代、和泉国の海の中から楽器の音が聴こえた。ある時は笛・笙・琴・箜篌(くご)などに似た音で、またある時は雷が轟くような音で、昼は音が鳴り、夜は光が輝き、東へ向かって流れていった。

このことを伝え聞いた屋栖野古は天皇に報告したが、天皇は黙り込んでしまって信じようとしない。そこで皇后に報告してみると、皇后は「おまえがそこへ行って調べてきなさい」と命じた。

屋栖野古が現場に行ってみると、海の中から異音がする噂は本当で、しかも雷の霊気に撃たれた楠が流れ着いていた。都へ帰った屋栖野古は「高脚の浜に霊気に当たった楠が流れ着いていました。あの楠で仏像を作ってもよいでしょうか」と皇后に伺いを立てた。皇后は「おまえの好きにしなさい」と許可を出したので、屋栖野古は大いに喜び、嶋の大臣(蘇我馬子)にもこのことを伝えた。

馬子もまたこのことを喜び、池辺直氷田(いけべのあたいひた)を招いて仏像を彫らせ、菩薩三体の像が造られた。これは豊浦寺に安置され、多くの人々がお参りをしていた。

しかし仏教を信じない大連の公(物部守屋)は、皇后に「仏像を我が国に置くことはいけません。仏像は遠くへ捨てるべきです」と進言した。そこで皇后は屋栖野古へ「早くその仏像を隠しなさい」と命じた。屋栖野古は氷田に命じて、仏像を稲藁の中に隠させた。

しかし守屋は、火を放って豊浦寺を焼き、残っていた仏像を難波の堀江に捨てて流してしまった。そして屋栖野古へ「今、国に災いが起こっているのは、隣国の百済から来た客神(まれひとがみ)の像を、我が国に置いて祀っているからだ。早く仏像を差し出せ!すぐに百済の方へ向かって捨て流せ!」と責め立てた。

しかし屋栖野古は、あの楠で作った仏像だけは、頑として差し出さなかった。すると守屋はついに気が触れ、逆上し、国家を転覆させようと謀反を企て、機会を伺っていた。

この時、天の神は守屋の行為に怒り、地の神も怒ったので、用明天皇の時代に、守屋は抹殺されてしまった。あの楠の仏像は再び取り出され、後の世まで伝えられている。現在その仏像は、天皇の命によって、吉野の竊寺(ひそでら)に安置されている。光を放つという阿弥陀仏像のことである。

やがて皇后は小治田宮で即位して推古天皇となり、36年の間天下を治めた。推古天皇元年の4月10日、厩戸皇子を立てて皇太子とした。そして屋栖野古を太子側近の侍者にしたのである。

推古天皇13年の5月5日、天皇は屋栖野古に「お前の功績は永遠に忘れることはない」と言い、大信の位を与えた。同17年の2月に、屋栖野古を播磨国揖保郡の水田273町5段の管理者とした。同29年の2月に、太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で死去した。このとき屋栖野古は出家を願い出たが、天皇は許可しなかった。

推古天皇32年の4月、一人の高僧が斧で自分の父を殴る事件があった。このことを聞いた屋栖野古は、天皇へ「僧尼を取り調べて上座(じょうざ。僧尼を統率する高僧のこと)を置き、悪行を犯した僧侶の善悪を判断させるべきです」と進言した。天皇は許可をした。

屋栖野古が調べたところ、僧は837人、尼僧は579人であった。そして僧侶の観勒が大僧正(だいそうじょう。僧侶を管理する組織である僧綱のトップ)に任じられ、屋栖野古と鞍部徳積(くらつくりべのとこさか)が僧都(そうづ。僧綱の次席)に任じられた。

推古天皇33年の12月8日に、難波に住んでいた屋栖野古は急死した。その遺体からは良い香りがしたという。天皇は命令を下して、7日間彼の遺体を留めさせ、屋栖野古の忠臣ぶりを偲んだ。

ところが3日目になって、突如屋栖野古は生き返った。そして妻子に「5つの雲があり、それが虹のように北へ渡っていました。私がその雲の道を歩いていくと、よい香りがしてきて、それは数々の名香を交えたような香りでありました。ふと先を見ると、道のほとりに黄金色の山が見えました。近づいてみると、それは黄金の光が顔に照りつけるほどに輝いておりました。

そしてそこには、亡くなったはずの聖徳太子様が立っておられました。太子様と一緒に山の頂上まで登っていきますと、頂上には一人の僧がいらっしゃいました。太子様はこの僧に対して丁寧にお礼をなさって「この一緒にいる者は、東の宮にいる私の腹心の部下でございます。しかし彼は、8日後に剣の難に遭うでしょう。どうかこの者に仙薬を飲ませてやってください」と頼まれました。

するとその僧は、手首のブレスレットをほどいて玉を一つ取り出し、私に飲ませ、「南無妙徳菩薩と三度唱えながら礼拝させなさい」と太子様に命じられましたので、私はその通りに礼拝をしました。

その僧の前から立ち去ったあと、太子様は「あなたはすぐに帰って、仏像を作る所を清掃しなさい。私は仏前で悔過(過ちを懺悔する法要)を終えたら、宮へ帰って仏像作りに取り掛かります」とおっしゃられました。なので私は、もと来た雲の道を通って帰ってきました。そしてふと気がつくと、生き返っていたのです」と話した。

その当時の人々は、屋栖野古のことを「還り活きたる連の公」と呼んだという。彼は孝徳天皇6年9月に大花位上の位を賜った。そして90歳あまりでこの世を去った。

彼を評した賛(さん。人物評)には次のように書かれている。
「善きかな、大部の氏。君は仙を尊び、仏法に帰依し、心は清からであり、忠義を尽くし、天寿と幸運をともに保ち、寿命を全うして夭折することがなかった。為政者として行うことは数多く様々で、その孝行を子孫に継承した。これはまさに、仏法の験徳にして、仏法守護の神の加護であるのだ。」

今になって考えてみると、黄金の山で太子が言っていた「8日後に剣の難に遭う」というのは、蘇我入鹿の乱のことである。あの世の8日というのは、この世の8年に該当するからである。また妙徳菩薩とは文殊師利菩薩のことであり、飲まされた玉は災難を免れる薬であったのだ。

あの黄金の山とは五台山である。東の宮とは、日本のことである。太子が言った「宮へ帰って仏像を作る」とは、太子が聖武天皇に転生して再び日本に生まれ、東大寺の大仏を作ることを指していたのである。その時、大仏建立の助力をした行基は、文殊菩薩の化身であったのだ。これもまた本当に不思議な話である。

三宝を信敬しまつりて現報を得し縁 第五 終

雑記

・長い。複数の説話を合体させたような構成になっている。

・まさかの転生END。転生モノじたいは古来よりありふれたモチーフだったようで、霊異記の別の説話にもある(後日紹介しよう)。

・大花位は大化五年(649)の官位十九階制における官位。大織・小織・大繡・小繡・大紫・小紫・大花上・大花下・小花上・小花下・大山上・大山下・小山上・小山下・大乙上・大乙下・小乙上・小乙下・立身の十九階のうち、大花位は7・8番目。中堅ぐらいの立場にみえるが、実際には上の下くらいの高官とみたほうがよかろう(大花位の一つ上の小紫階以上は実質大臣クラスの位で、数名しかいない)。
律令制下の官位三十階ではなく、あえて大化年間の官位を用いて描いている点は興味深い。典拠となった屋栖野古の伝記の存在を窺わせる。

・大信は官位十二階制における官位。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階のうち7番目。官位十二階とは言うまでもなく、推古天皇11年(604)に定められた、日本最初の位階制である。聖徳太子の事績として著名。

・アンチ仏教の物部守屋にまつわる話は、いわゆる崇仏論争として著名である。『日本書紀』だと次のような話になっており、記述が若干異なる。
……百済の聖明王は、使者を派遣して日本へ仏像や経典を献上した。欽明天皇は大いに喜んだが、仏教を受容するかどうかを臣下に相談した。蘇我稲目は「百済などの諸国はみな仏教を崇拝している。我が国も敬うべき」と言い、物部尾輿は「日本にはもともと神がいて、それを祀るのが正しい。仏教を受容すれば、国に災いをもたらす」と言って、意見が別れた。そこで天皇は、試しに蘇我邸の「向原の家」を寺として仏像を安置し、様子をみた。すると国中で疫病が流行ったので、物部尾輿は「早く仏像を捨てるべき」と進言する。天皇はその意見を受け入れ、仏像を捨て、寺を焼いた。すると今度は宮殿が火事で焼けてしまった。(以上『日本書紀』欽明天皇十三年(552)十月条)
なお仏教伝来の年は、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』だと戊午年(538)とするが、『日本書紀』は壬申年(552)のこととする。ただし『日本書紀』の暦日はかなり操作を受けており、潤色的な記事も多いことから、538年説を取る見解が主流。

・豊浦寺は、豊浦宮付近にあった寺で、現在の向原寺に該当する。上記記事の「向原の家」に由来する。


・僧綱とは、僧尼を管理するために置かれた役所。僧正・僧都・律師の三ランクがある。大僧正はトップオブトップというわけだが、これに初めて任じられたのは行基であり、観勒が任じられたとする霊異記の記述は創作。
観勒は天文・暦・占いの技術を初めて日本に持ち込んだ人物としても知られる(『日本書紀』推古天皇十年冬十月条)。

・五台山は、文殊菩薩の聖地として著名な中国の山。中国へ渡った日本人僧侶も、多くこの山を訪れている(円仁や奝然など)。

・長い。

以上



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