『日本霊異記』上 観音菩薩を憑み念ぜしによりて現報を得し縁 第六

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

留学のために異国へ渡った僧侶。しかし亡国の混乱に遭って往くあてを失う。しばらく放浪していたが、行く先を大きな川が阻む。橋は壊れ、舟も無い。万事休すの僧侶は、藁にもすがる思いで観音菩薩に祈った。すると……

本文

観音菩薩を憑み念ぜしによりて現報を得し縁 第六

高僧の行善は、出家前の姓を堅部(かたしべ)氏といい、小治田宮で天下を治めた天皇(推古天皇)の時代に、留学のために高麗(こま)へ渡った。しかし高麗は滅亡してしまい、行善は往くあてを失って放浪していた。

ある川にさしかかった時、橋は壊れ、船も無く、川を渡るすべが無かった。仕方がないので行善は、断ち切れた橋のほとりに座り、心から観音菩薩を念じた。

するとその時、一人の老人が舟に乗って来て、行善を載せて川を渡してくれた。渡り終わって舟から降りると、老人の姿はすでに無かった。そして舟も消えてしまった。

行善は、この老人はおそらく観音菩薩の化身なのだと思い、さっそく発願して菩薩の像を造り、これを敬うことを誓った。すると行善は唐に辿り着いたので、誓いの通りに像を造り、日夜を問わず祈祷し続けた。ゆえに世間の人々は、行善を「川辺の法師」と呼んだ。

行善の性格といえば、人一倍忍耐力が強かった。ゆえに唐の皇帝にも重んじられた。やがて行善は、遣唐使の舟に便乗して、養老二年に帰国した。帰国後は興福寺に住み、あの観音菩薩像を供養し続けた。
まことに観音菩薩の法力は不可思議なものである。

後の人が行善を批評した賛には、次のように書かれている。
「行善老師は、遠国に学ぶも遭難し、帰るすべを失った。川を渡らせてほしいと菩薩を思い、壊れた橋のほとりでひたすらに祈った。すると菩薩の化身である老人が来て助けを得たが、老人はすぐに消えてしまった。行善はその老人の姿を仏像にして常に礼拝を欠かさず、最後まで止めることがなかった」。

観音菩薩を憑み念ぜしによりて現報を得し縁 第六 終

雑記

・観音菩薩すごいよ系説話。それだけなのであまり語る所がない。

・ここでいう高麗とは、もちろん高句麗のこと。660年の白村江の戦いで、百済もろとも滅亡した。

・行善はこの説話にしか出てこない。実在したか不詳だが、経歴を額面どおり捉えると、かなりの長寿ということになる。
 ①推古天皇の時代(在位593~628年)に高麗へ渡る。
 ②高句麗の滅亡(660年)に遭遇。
 ③養老二年の遣唐使(718年)に便乗して帰国
もちろん高句麗へは留学に行ったわけだから、それなりの年齢でなければならない。若くても20歳だろう。推古天皇の末期、620年に20歳だったと仮定すると、高句麗滅亡が60歳、帰国が108歳。どえらい長寿である。ホントかよ。キャラ設定が甘かっただけかもしれないが。

・推古天皇の時代には高句麗の僧侶が来日している。以下は代表的なもの。
恵慈は推古天皇三年(595)に来日(『日本書紀』五月丁卯条)し聖徳太子の師となった。太子は恵慈から仏教の薫陶を受けたとされる。
曇徴は推古天皇十八年(610)に来日(『日本書紀』三月条)し、儒教・顔料・紙・墨・臼などの技能を有していたという。
こうした事実に即すると、行善が高句麗に留学へ行った可能性はある。だが唐へ行き、遣唐使に便乗して云々という辺りは、う~ん。

以上


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