『日本霊異記』上 電の憙を得て生ましめし子の強力在りし縁 第三

諸注意

・平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)の現代語訳と、そのメモ書き。
・テキストは、手元にあった日本古典文学全集本(小学館、1975年)を使用(より新しい新日本古典文学大系本を参照する方が望ましいと思われる)。中田祝夫氏による現代語訳が付いているが、従わない部分もある。
・あくまでメモ書き。乱暴な訳なので、コピペしての二次使用は禁ずるし、奨励しない。

あらすじ

雷の化身を助けたことで、男は一人の男の子を授かる。その子は怪力の持ち主で、怪力を活かして様々な事件を解決していく。

本文

電の憙を得て生ましめし子の強力在りし縁 第三

その昔、敏達天皇――磐余(いわれ)の訳語田宮(おさだのみや)で天下を治めた渟名倉太玉敷命(ぬなくらふとたましきのみこと)である――の時代、尾張国愛智郡片輪里というところに一人の農夫がいた。

この男が田んぼに水を引いていた時、小雨が降ってきたので、男は雨宿りのため木陰に移り、地面に鉄の杖を突き立てて(雷避けヵ)、雨が止むのを待っていた。

その時、雷が鳴り出した。男は驚き、恐れ、鉄杖を持って立ちあがった。すると雷がちょうど男の前に落ちてきて、小さい子どもの姿になった。男が雷を鉄杖で突こうとすると、雷は「ぼくを殺さないでください!助けてくれたら、必ずその恩に報います!」と言った。男が「何を報いるというのか」と聞くと、雷は「おじさんに子どもを授けてあげます。なので、ぼくのために楠の船を作り、中に水を入れて竹の葉を浮かべてください」と答えた。

男は、雷の言う通りに船を作ってやった。雷は「近づいちゃだめだよ」と言って、男を船から遠ざけた。すると雷は、たちまちに霧を起こして雲を作り、天まで昇って行ってしまった。その後、男の一家には子どもができたが、生まれた子どもの頭には蛇が二頭巻き付いていて、頭と尾が後頭部に垂れ下がっていた。

やがて月日は流れ、その子が十歳ぐらいになった頃のこと。その子(便宜的に雷童子と名付けておく)は朝廷に力自慢がいると聞いて、試しに力比べをしてみようと思い、都へ行って御所の近くに住んでいた。

朝廷の力自慢というのは、御所の東北にある別院に住んでいた王(おおきみ)である。別院の東北の隅には、八尺四方(一尺は約30cmなので、一辺240cmの立方体と同等サイズ)の石があった。力自慢の王は、別院から出て、その大きな石を持って投げた。するとその石は別院の門の前に落ち、門を閉ざして人の出入りが出来なくなってしまった。

これを見ていた雷童子は「世にいう力自慢の王とはこの人のことだな」と思い、夜の間、人目を避けてその石を取り、王よりも一尺遠くへ投げた。王はこれを見て、手を叩き体を曲げたりして気合を入れ、もう一度石を投げ飛ばしたものの、前回より遠くへ飛ばすことはできなかった。すると童子は、石を前回よりも二尺遠くへ投げ返した。王は再び投げ返したが、やはり前回より遠くへ飛ばすことはできなかった。

童子が立って石を投げた場所には、彼の小さい足跡が三寸(一寸は約3cmなので、約9cm)ばかりめり込んでいた。王は「このあたりにいる小さい奴が石を投げたんだな」と考え、童子を見つけると、捕まえようと近寄ったが、すぐ童子は逃げてしまう。王が追い、童子は逃げる。童子は垣根を抜けて逃げたかと思えば、いつの間にか垣根の内に帰ってくる。王が垣根を越えて追おうとすると、童子は垣根を抜けて逃げ戻る。こんな調子なので、力自慢の王は終ぞ童子を捕まえることができなかった。王は「俺よりも力の強い奴だ」と思い、それ以上は追わなかった。

やがて童子は、元興寺の稚児(ちご)となった。その頃、寺の鐘つき堂で毎晩死人が出るという事件があった。童子が「俺がこの災いを止めてやりますよ」と言うので、僧たちは童子に事を託すことにした。

童子は鐘つき堂の四隅に灯りを置いて、僧を一人ずつ待機させた。童子は四人に「俺が鬼を捕まえたら、一斉に灯りの覆いを取って下さいよ」と伝えると、自分は鐘つき堂の扉のそばに隠れた。

夜になると、鬼がやってきた。堂を覗きこんで、童子が隠れているのに気づいたが、この時は見逃した。鬼は真夜中に再びやってきて、堂を覗きこもうとした時、童子は鬼の髪の毛を掴んで堂の中に引きずり込んだ。鬼は外へ逃げようとしたが、童子は髪を掴んで離さない。しかし、灯りの覆いを取るべき僧侶たちは、慌てふためいてしまって役に立たない。仕方がないので童子は、鬼を引きずりながら、堂の四隅を順に回って覆いを取ってやった。

明け方になると、掴んでいた鬼の髪が剥がれてしまい、鬼は這々の体で逃げ帰った。翌朝、その鬼の血痕を辿っていくと、元興寺で悪さをした奴(ぬ。奴隷身分である奴婢のこと)を埋めたという辻に行き着いた。そこで初めて、鬼とはその奴の霊鬼であったことが判ったのであった。童子が引き剥がした鬼の髪の毛は、今でも元興寺の宝として保管されているという。

後に童子は優婆塞(うばそく。僧侶に奉仕する在俗の信者)となって、引き続き元興寺に住んでいた。ある時、寺の田んぼに水を引き入れようとすると、諸王(天皇の血を引く貴顕)たちが邪魔をして、水をせき止めてしまった。いよいよ田んぼが干上がろうとした時、童子が「私が田に水を引き入れてきましょう」と言うので、僧たちは童子に事を託すことにした。

童子は、十人がかりでやっと持ち上げることができるぐらいに大きな鋤を作らせた。童子はその鋤を持って、杖がわりにして歩いてゆき、水門のあたりに鋤を立てかけておいた。すると王たちは、鋤の柄を引き抜いて投げ捨て、また水門を塞いで寺の田に水が流れないようにした。

これに対して童子は、今度は百人がかりでやっと引き動かせるぐらいの大きな石を持ってきて、水流の向きを変え、水を寺の田んぼに引き入れた。この様子を見た諸王たちは、童子の怪力を恐れ、二度と水門を塞ぐような真似はしなかった。ゆえに寺の田んぼが干上がることはなく、その年は豊作であったという。

そんなわけで、元興寺の僧たちは童子の出家を許し、彼は道場法師と名付けられた。後世の人が「元興寺の道場法師は怪力だ」と言うのは、この話のことである。道場法師が怪力を得たのは、前世で善行に励んだためであって、このことをよく知るべきである。またこの話は外国の話ではなく、日本国の不思議な話なのである。

電の憙を得て生ましめし子の強力在りし縁 第三 終

雑記

・雷の化身を助けるという善行の結果、怪力を持った子が生まれ、様々な場面で活躍をみせる話。この道場法師の説話はたいへん有名だったらしく、異伝が多く存在する。古くは都良香の「道場法師伝」がある(『群書類従』 第五輯 伝部 巻69)。また『扶桑略記』では、敏達天皇十四年八月十五日条に同様の説話がみえる。

・藤原道長が元興寺を訪れて宝蔵を見せてもらった際、あの鬼の髪の毛らしきものを観覧している。(『扶桑略記』治安三年十一月十九日条「開寳倉令覽。中有此和子陰毛〈宛如縵。不知其尺寸〉。鐘堂鬼頭忽難撰出」。「此和子陰毛」とは鬼の毛のことであろうか。まさか「陰毛」ではあるまい)。なお、現在の元興寺には所蔵されていない様子。

・力のあまり足跡がメリ込む描写はジャンプ系漫画だけかと思っていたが、まさか霊異記の時代からあるとは。

・稚児とは寺に仕える少年で、主に雑用を担った。女人禁制の寺院において、稚児がしばしば僧侶の性愛の対象になっていたことはよく知られている(雷童子はその限りでないようだ)。特に平安後期からは「お盛ん」だったようで、『後拾遺和歌集』(1086年)の恋部には、「思ひけるわらはの三井寺にまかりて久しく音もし侍らざりければよみ侍ける」僧都遍救という僧の和歌が収録されている。

 逢坂の 関の清水や にごるらん 
 入りにし人の かげの見えぬは

遍救の愛していた稚児は、三井寺に使いに行ったきり音信不通になってしまったので、この歌を詠んだという。その心情を「逢坂の関の清水」にたとえ、水が濁ってしまい、稚児の影は映らない――二人の関係が終わってしまい、きっと稚児は三井寺で新たな恋に落ちてしまったのだろう――とまぁ、こんな具合であろう。ちなみに僧都はかなり身分の高い僧侶のことなのだが……恋の病に立場は不問ということか。

・尾張国愛智郡片輪里は、現在の愛知県名古屋市中区古渡町付近(全集本注)。金山駅の北部あたりである。恐らくこの辺りは、往古は海に面していたと思われる(金山の南部、熱田神宮の周辺には熱田津、つまり港があった)。古渡町の地名もここから来ているのだろう。

・元興寺は、もと法興寺(飛鳥寺)と言い、かの蘇我馬子が建立した日本最初の本格的寺院とされる。ただし、法興寺建立の発願がなされたのは用明天皇二年(587)のことであるから、敏達天皇の時代に法興寺は無い(敏達の次に即位したのが用明)。この法興寺は、平城京遷都の際に奈良へと移され、元興寺と名前を変えた。しかし元々の法興寺も存続したため、奈良にあるものを元興寺、飛鳥に残ったものを本元興寺と呼ぶようになった。
日本仏教興隆の聖地として古くから信仰を集めたが、平安時代末期ごろには勢力を失い、荒廃が進んでいたらしい。室町時代には戦火を受け、大きな損害を受けた。

・霊異記の中でも長い方の説話らしい。疲れた。

以上


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