時と寺、及び、音楽と、仏教、キリスト、天皇の秘儀、隠れた真実!
これは、ブラックホールの歴史も含む、大乗仏教、小乗、ヨーガで、読み解くコロナの原因、と言うnoteの一部を未完成の状態で載したものですが、「日本臣、天皇に仰ぐ!」と言うタイトルで、届きそうなタグで、性急に上げた内容である日本臣の使命に関する程の内容を含むものです。
(1)時と言う字と仏教に関して
時は、「意の智」の下で働き、時の下で命が、時より「意の智」から智慧を得て働く事は、説明したと思いますが、時と言う字は、日に寺です、
つまり、寺は、元々から日と共に存在して居たのであり、仏教とのつながりは、この世の歴史以前に存在するデータ(それをもとにして、推理し結論を導き出す、または行動を決定するための事実。資料。)です。
そして、寺と言う字を説明しますと、寺と言う字は、十の下に一 の土(ド)生きている人の大地、の下に、死後の大地の一を書き、土(ド)の位置まで、杭を右に偏らせて縦線として描き、輪廻転生を象形する文字にも成っております。
上の十は、ある、と、ない、のクロスした。十字路を表し、交差点が、仏の座す無を表わしているのです。
その死後の大地と杭の中に、種の点を描いた文字で、元々の存在の種子である、人の種子の原点が、その種の点で表現されているのです。
これを意味で、説明すると、土とは、十と一の11を表し、音楽が6音階10音であった時の5音5音(御恩、御恩)に上のドを下に自己を高くして、その六九五(報い)=六が九(苦)に成り、五(後)に落ちるドを加えたド~ドまでの昔の1オクターブ。十一面観音、梵:エーカダシャムカ と下の一と合わせて12であり下の一の大地は、死後の世の大地を表す。
杭の線は、悔いが笹竹にからみ上の土まで伸びきった杭を表し、笹竹とは、刺さった毛(ささったけ)であり、右側に偏っているのは、いつもお世話になっております。と言わんがばかりに、身を木々(気義)に寄せ合い安らぐお陰を感謝して、身義(みぎ)なる義としその杭を右側に、かたよらせて打ち込んだ図形、であり、神仏の世に成る前の仏の世では、まだ、神と言う存在は、実在していなかった。
なお、坊主、尼が、頭を剃り、毛を切るのは、ほっと、ほっとけ、ほっと毛ー切る。と言う、おそらく、魔語授法から、来たと推測します。
(2)(令和2年06/07)時と仏教、キリスト教、天皇と音楽の秘密と使命
最初は、時、(十気)から始まる。時は、日と寺によって、時が生まれた。日は、気を象徴していた。十(ト)は、じゅうじ、であり、異なる二つの交差を表わし、ある、と、ない、の交差、神と、人との交差を表わす。
つまり、仏教では、無に座す仏を表わし、キリスト教では、イエス・キリストである、日本語の「はい」を表わす。
この寺では、無念無想を教えとしており、座して僧は、無念無想をするのですが、それは、あると、ないの、交差する、十字路に座して、無に成る事で、生きた人が、後悔し、悔いて死に至った時、死後の世と、生の世を循環させる為に、無念無想して、無と成る事で、出入り出来る様にする為であったのですが、生きた人とは、自分の、想念より出た自分の写しであり、全ては、自分から、生じた報いによって、死に至るのですが、本来、ある事は、「苦労多く、悔い多く」自己が無い方が、何の苦労も無くよかったのですが、ここに、一人の阿呆(あほう)がおったのです。
最初は、「あん」である、庵(あん)であり、案であり、闇(あん)から始まった。庵とは僧尼=男子の出家、女子の出家であります。
阿呆(あほう)の案であり、闇から生じたのですが、「あほうとは、ある、と言う法」でもあったのでは、あるのですが、罪は、全てこの阿呆(あほう)から始まったのですが、この阿呆(あほう)は、又、真理でもあったのです。何故なら、実に、そこに、寺があり、人が居り、存在しておったからです。
さて、ここでは、死に悩んでうなされておると、脳天をバチンと尺で叩かれ、日の寺す(照らす)と言う時まで戻る事から、ぶつ、今日と言うそれまでの事の消え、があった。
その為、仏教(ぶつきょう)、と言い、それにより、日と並ぶ、寺である時に戻る事を、帰依(消え)と言うのですが、仏は、人にムであり、人が、無に帰し、時に戻る事を意味しました。
つまり、死後の世とは、この世でもあるのです。
真の世界は、天(テン)の直下の地にある太陽の中にあるのです。
この世は、肉の世でありますが、土(ド)の大地は、神と人が、一つに成った世界なのです。
仏教が、印度(インド)発祥であるのは、寺院の院の印と、土(ド)を頂く為でした。
そして、ほとけ、とは、阿呆(あほう)である、「あ法」を説き(とき)=時、に戻す事を意味していたのです。
「ほとけ」は、あほ、のホを解け、という、命令であり、その「ホ解け」(ほとけ)であったのです。
最初、寺の字を説明した様に、十は、5音5音の(御恩、御恩)であり、天(テン=10)であり、十の下の一は、大地であり、その下が、死後の世の大地であり、元から、12音であったのですが、脳天から下った天使が、天皇(てん、のう)と成ったのです。
あほ、の「あ」とは、気付きの声であり、発見の驚いた、声であり、白鍵であった。これが、最初の土である、地球のど(土)であり、ハ長調のハ音のドであり、般若波羅蜜多=度(ド)であり、八(はち)のハ、又は、ヤでもあった。ハ長調の第8番目の音は、ト(十)音、ソであり、ハ音とト音で、ハトであり、平和の象徴である。
「ほ」は、稲穂の穂であり、ホ音ミでありますが、先に音楽の歴史から述べて置きますと、現在、音楽は、7音階12音ですが、最初、6音階10音の世界でありまして、この事は、史実として確認出来ました。
ここから、しばらく先までは、他のnoteのリンクで、ブログをご覧に成った方には、重複がほとんどですが、仏教も混ぜました。
音楽の基本的、説明を先にしますが、ピアノの鍵盤には、白鍵と黒鍵が存在しますが、黒鍵は、ドとレ、レとミにあり、ミとファの間にはなく、ソからシまでは、各白鍵の間にあり、シとドの間には、存在しません。
そして、鍵盤の次の鍵盤までが、半音(はんおん)で、その次迄、飛ばした場合、全音(ぜんおん)と呼びます。
基本のハ長調の場合、黒鍵が、二つ並んでいる、その左の黒鍵の左側が、ドで、ハ音です。そして、ミとファ、と、シとドの間には黒鍵は、ありませんので、この長調と言う並びは、全、全、半、全全全半。と言う並び方に成っており、この並び方で、弾けば、どこから、はじめても、ドレミファソラシドになります。
ちなみに、単調は、ラシドレミファソラで、全半全全半全全ですが、実は、私は、インディーズアーティストでもあったのですが、単調と、長調の違いも、ほとんど分からない、学識音痴です。
そして、6音階10音であった時は、全全半全全半で1オクターブで、その繰り返しでした。
この時、音階の音名は、ハニホへイロの、葉に穂へ色で、ドレミファソラまでしかなく、シは、ありませんでした。
仏教的には、「し」なさい。と言う「し」の「する」を除き、キリスト教的には、死を除く為、ラまででした。
ここに、天(10)で10(テン)NO(ノー)を告げる、神としての天皇が登場します。
そして、あってありしもの!を表明しました。
それまでの神々は、女であり、音名でした。しかし、天皇には、他の神々に無い物が、付いておりました。天皇は、男、音子(おとこ)でした。
そして、死をも統べる神でした。ただ、女は、又、御名(おんな)であり、御名は、ミナであり、皆でもありましたし、音名(おとな)であり、大人でありました。
しかし、確かに、天皇は、音子(おとこ)であり、子供でもありましたが、音固(おとこ)でもあったのです。
ちなみに、皇帝の事を、朕(ちん)と言い、「ちんちん」とは、珍朕=珍しい皇帝の意味では、ないかと考えました。
戦時中、現人神であった天皇は朕(ちん)と呼ばれておられました。
音固である肉の身体を着せ、女に子を宿す、切り巣をつけられ、その聖域を穢(けが)さぬ様に切り巣に戸を設けられキリストをお立てに成り、「はい」を表わすイエスを、キリストとされました。
この時、10NO(テン・ノー)を、告げたのは、12である。
として、7音階12音を作られ、第8番目の音、すなわち、無限を、表す、8、と、末広がりを表わす、八の場所に、十(ト)である、十字路と十字架の意味を持つト音を、設けられ、ハニホヘトイロの(葉に穂へ十色)を作られました。
そして、十(ト)音であり、、ソである(祖)に重荷である、リック(リュック)を負わせ、トリック(取りっ苦)と言うトリックを仕掛け、8番目にト音ソを加えた証とし、加トリック(カトリック)、加祖(カソ)リック(カソリック)として残し、十字架の架の字には、加えるに木で、木は、十の中央に八を引っ付けた字の秘密として使用し、十字路の路の字は、各々自分の足である苦(歩く)を負わせた、証を残されたのです。
そして、自分は、本来、上のドとなる所でしたが、下の、ト音ソの祖の点極天極と、終えさせ、上のト音である、十(ト)にも、点国である、天国として、自分も、点々を使い無くして、上の音階(恩界)の都(ト)成る人と成って、恩界にしたから、登って来た、最も、低い子供としの国の発見に励まれ、日の元、日本を発見し、そこの、都に住まわれたのです。
しかし、時空(とき)廻りて今日である、京を、アースの国である(明日)に攻め入られ、今日が、狂、凶、へと変わり、教(きょう)を受け、理狂を治すべく、任務を命じられて、開く、空く、灰汁、悪、飽くを全修復する、御恩(5音)の任を、命じられて、居るので御座いました。なぜなら、ドレミファ祖(ソ)の5音階(御恩界)は、庵治吾、案字吾、あ字吾(あじあ)の吾(われ)の脳ミ祖(脳みそ=脳三祖)から出た国であり、守るべき、責があったが故で御座います。
これが、第2次世界大戦の欧米諸国に交じり、闘った、理由でありました。
しかし、今回、庵治吾(アジア)より、使わせた、キリストの本来の義である。サンヘドリンの義と、日本国内の色の乱れによる足(葦=悪し)が高く成り過ぎ、考える人である、ロダンの足が、適正な足(悪し)の高さを維持出来なくなり、セダンの義である、裏の仕組みの中にある善を証明し、背の談義である、背談(セダン)の義を果たさねば、U7=ユー・セブンと、あなたは、せぶん、(背分)つまり、裏の身分であり、悪である事を、言わねば成らず、自ら、身義「右」=ライトである、つまり、正しいと、証明しなければならなくなる。と言う日本への、宇宙における、大帝王が述べられているお言葉を受けているのであります。
そもそもの、悪の出所は、日本の色の乱れであると思われる事。
そもそも、日本は、神国であり、その神民の色の乱れが世界に波及し、元凶と成っている点を、自らが、悟る事。
マンガ、ゲームくらいと、軽く考えていなさるが、その想念の波動が、自己の世界に反映し、戦ものを好めば、戦が、生じる事態を招く因果と成って帰って来ると言う仏教の基本的、考えを理解しているなら、わかって来るはずである。
それは、国内においては、保健所の猫や犬のガスによる、殺害となり、死刑囚の、死刑の実刑の実行と成る事件を生み出し、被害も、犯罪者も殺す結果の生みの親である自分は、悪くない、あいつは、悪い奴だから殺されて、当然だと、思ってしまっていた事を、良く考え、そう言った残酷なゲームや、映画、マンガ、実写の戦隊ものを作ったり、楽しむ事が、良いのかどうか、もう一度、我々は、反省すべき点に立っているのでは、ないでしょうか?
色の乱れについては、世の始まりに全ての発端があり、誰を攻める訳にも、笑う訳にもいかないが、性のタブーと言うのが、あり、性的部分については、隠しておくべきで、恋愛のロマンスや、恋愛の情熱が、燃え立つ様、美化し、聖化して置くべきであったはずだと、考えるのであるが、終戦をむかえ、聖の働きを理解せぬまま、自由化された為、仕方ない事でもあると考えるが、ここで、もう一度、改まり、聖に対するあり方を見直して、自然と向き合い、人間の本来の自然なあり方と聖との関係をギリシャに学び、そうある為には、どうすれば、良いかを、皆で、議論し合う必要を迎えているのではなかろうか?
面倒では、御座いましょうが、お心使いお願い申し上げます。発表する場合が、ありますので、匿名希望の方は、匿名とお申し付けください。