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直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え④<完>―

11. 直井文人は「神」である。

 こうして彼は三度「神」となる。
 最初に書いたように、彼も「理不尽な人生」を歩んだうちの一人だ。
 誰に頼んでいないのに「陶芸の名手の家」に生まれ、しかし彼は頭角を現すことなく、不慮の事故で兄は死に、結局、「直井文人」としての自分は認められずに生涯を終える。

 ここで彼は、彼の心に「元型」として宿った「イエス・キリスト」に一致する。
 イエス・キリストと同様に理不尽な目に遭い、生きる苦しみを知ることが、元型としてのイエス・キリストと一致することなら、やはり「理不尽な人生」を送った者だけが、「ひどい人生」を送った者だけが「神」になれるのである。

 以上が、私の、私なりの直井文人の物語への答えだ。直井文人の物語の解釈だ。
 すなわち直井文人は、ヨブに対峙して初めて理不尽を意識したヤハウェという「神」であり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と叫んで天に昇ったイエスという「神」であり、人々の集合無意識に根差す「元型」としての「イエス・キリスト」という「神」なのである

 しかし、「イエス・キリスト」となったのは彼だけではなかった。

12. 「理不尽な人生」

 やや乱暴ではあるが、イエス・キリストと同じような目に遭ったものは皆、元型としての「イエス・キリスト」を発現したものだというならば、『Angel Beats!』の登場人物たちは皆、それを発現したものだということになる。
 なぜなら彼らは皆、一様に「ひどい人生」を、「理不尽な人生」を歩んできたからだ。しかし、それはもちろん誰にでも起こりうる話である。
 ユングに言わせれば、それは集合無意識に根ざした普遍的な「元型」なのだから当たり前だし、それは「まさに人間ならだれでもそうした人生を持ちうることを表している」(p74) 。

 でも、すごく残念なことだけれど、「元型」なんて持ち出さなくても、「ひどい人生」を、「理不尽な人生」を歩むということは、普通にありうる話である。
 人間の力ではどうしようもない出来事が、善悪のバランスがとれていないような出来事が、この世界では日常的に起こっている。
 悲しい話だ。

 では救いは?
 神は理不尽で、人間は日常的に理不尽目に遭い、ひどい人生を歩んでしまうのだとしたら、そこに何か救いはあるのだろうか?

13. 救済

 そこに救済というものがあるかどうか、私にはわからない。

 例えばヨブやイエスに救済はあっただろうか?
ヨブは最後、財産を二倍にして返されたけれど、与えられた理不尽な痛みが消えたわけではないし、イエスは神としてあがめられたけれど、生前救済されたとは到底言い難い。

 そもそも、何を持って「救済」と言うのだろうか? それは人によってそれぞれ異なるものではないのだろうか?

 例えば直井文人はどうだっただろう?
 彼はたしかに、生前は救われなかった。しかし、死後、あの世界では救われたのではないだろうか?
 彼を救ったのはほかでもない、音無結弦だ。音無結弦は直井文人を、文人が偽物だと思っていた彼の人生ごと抱きしめる。
 「お前の人生だって本物だったはずだろ?! 」、「お前以外の何を認めろってんだよ。俺が抱いているのはお前だ。お前以外いない。お前だけだよ」。そう言いいながら。

 これが救いでなくて何だと言うのか。
 音無が与えたのは無償の愛である。文人の人生を、文人だけの人生を認めるアガペーである。
 だから見ようによっては、音無結弦はある種の神様なのだ。直井文人という、一人の人間にとっての、個人的な神様だ。生前叫んだ「神様!」という声は、遅ればせながらここに届いていたのである。

14. 死の秘匿性

 以上のように、直井文人は死後救われたとも考えられる。
 しかし現実世界ではどうだろうか。現実には、死後の世界があるかなんてわからないし、少なくとも、この世で理不尽を被っている人間はごまんといる。

 ただ、そこに唯一救いがあるとするならば、誰も本当の「死」を知らないということなのではないだろうか?

 死後の世界はあるかもしれないし、ないかもしれない。人によってはあった方がいいのかもしれないし、ない方がいいのかもしれない。
 しかしわからないからこそ、それは救いになりうるのである。なぜならわかってしまっていたら、その真の「死」が救済とならない人は永遠に救われることがなくなってしまうからだ。

 私はどちらかというと、死後の世界はあってほしいと思っている。
 心の片隅では、たしかにどこか死んだら何もないと思う自分もいる。しかしながら、死んで何もなかったら、あまりにもつらいという思いもそこには同居している。
 だって死んで何もなかったなら、生前「理不尽な人生」を送った者は、「ひどい人生」を送った者は、どこで救われたらよいのだろうか?
 理不尽だけの人生なんて、あんまりではないだろうか?

15. 『Angel Beats!』 への答え

 私は9年経った今でも、まだ心のどこかで『Angel Beats!』の世界を夢見ている。
 死んだらあの世界に行って、天上学園に行って、音無やゆり、日向たちとともに、「死んだ世界戦線」で日夜戦いを繰り広げるのだ。理不尽に死ぬだけの人生に「あらがう」のだ。

 私がそう夢見るのは、きっと「理不尽な人生」が、「ひどい人生」が受け入れきれないからだ。
 「理不尽な人生」を送ったとしても、「ひどい人生」を送ったとしても、あの世界に行ける、あの世界で報われる。そう考えると、少しは救いがあるように思わなくもない。

 もちろん別にあの世界でなくてもかまわない。人には人の「救済」がある。
だから別の結末を望む人もいるだろう。Angel Beats! の登場人物たちのように、最後は成仏したい人がいるかもしれない。生まれ変わりたい人もいるかもしれない。無になりたい人もいるかもしれない。
 だから『Angel Beats!』の天上学園でなくとも、誰かにとっての「天上学園」があればよいのだ。誰かにとって救いとなりうるようなそんな世界が。そんな物語が。

 これが私なりの、『Angel Beats!』への答えだ。
 誰かにとって救いとなるかもしれないし、救いとならないかもしれない。誰かにとっての「天上学園」は、その人の心の中にある。
 「理不尽な人生」を教えてくれる、理不尽な神を教えてくれる、誰かにとっての「救い」を教えてくれる、それが『Angel Beats!』という物語ではないだろうか。

 しかしそうは言っても、生きるのはつらく、苦しい。
 この人生はもしかしたら「ひどい人生」かもしれない。「理不尽な人生」かもしれない。
では、私たちはこの人生をどうやって生きればよいのだろうか?

 最後にこの問いに「答え」を与え、本論の結びとしたいと思う。

16. 神への「賭け」

 こんな言葉がある。

 「地獄はここにあります。頭のなか、脳みそのなかに。大脳皮質の襞のパターンに。目の前の風景は地獄なんかじゃない。逃れられますからね。目を閉じればそれだけで消えるし、ぼくらはアメリカに帰って普通の生活に戻る。だけど、地獄からは逃れられない。だって、それはこの頭の中にあるんですから」
 (伊藤計劃『虐殺器官』(ハヤカワ文庫,2010) p52より )

 そう、地獄は頭のなかにある。
 『虐殺器官』の文脈からはややズレてしまうが、生きることがつらいとするなら、生きることが苦しみだとするなら、それは頭の中が、人間の内面がつらく、苦しいと感じているのである。

 ではそんな人間の内面を、「地獄」を生き延びるにはどうすればよいのだろうか?
 それにはたくさんの解決法が考えられるが、一定の人は、心に神を宿す。上述したセリフを述べたアレックスも、「信心深き若者」であり、心に神を宿していた。

 そして私の大好きな哲学者であるキルケゴールも、心に神を宿した、いな、宿さざるをえなかった人間であった。
 彼のすごいところは、信仰が信じられないものとわかっていながら、それでも信じようとしていた点である。

 信仰とは、内面性の矛盾の情熱と客観的不確かさと矛盾をそのまま受け止めることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。もし私が神を客観的に把握できるのなら、私は信じてなどいない。だがまさしくそれができないからこそ、私は信ずるところへと追い込まれるのだ。
 (セーレン・キェルケゴール『キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ』鈴木祐丞 編訳 (講談社,2016) p19 )

 人によっては、キルケゴールがこう語っていることは、驚くべき事態だろう。なぜならキルケゴールは一般的に、非常に信心深い人間だと信じられているからだ。
 その彼ですら、「私は信じてなどいない」と一蹴する。しかし彼は、信じていないからこそ、神を信じるのだ。というよりも、信じられないからこそ、信じるしかないところまで追い込まれるのだ

 ここに一つ、どうやってこのつらく、苦しい人生を生きていけばよいのかということの答えがある。
 それは各々の内面の「神」を信じるということだ。信じられなくとも、信じるしかない次元にまで追い込まれ、そこで神に「賭ける」ということだ。

 もちろん諦めてしまうこともできる。はっきり言って生きていることに本質的な意味などないし(もちろん表面上の理由はいくらでもある)、その気になれば、死んで生きることは諦めることもできる。
 しかし生きるのならば、つらく苦しい生でも、それを生きようと思うのならば、各々の「神」に縋るしかいないと、私は思う。

17. 「それでも町は廻っている」

 やっぱり神は理不尽で、この世はつらく苦しい。今日も誰かが「ひどい人生」を送っていて、誰かが「理不尽な人生」を嘆いている。

 しかし、それでも町は廻っている。 

 それは、とても残酷なことのように思えてしまう。
 しかしだからと言って、この生を諦めてしまえるだろうか?
 私にはそんなことは絶対にできない。この生を手放すことは、もしかすると死んで行った人や残された人々への冒涜なのかもしれず、もしかすると自分自身すらも永遠に救われないかもしれないからだ。

 幸いなのは(私の場合はあるいは特殊なのかもしれないが)、つらく苦しい人生は、ときに幸せを、楽しみをくれるということだ。
 私が私の「神」に祈るのは、まさにそのことだ。私が、あるいはすべての人が、ときに幸せであり、ときに楽しくあったならどんなによいことだろうか。 

 今日もあいかわらず、神は理不尽だ。
払われたはずの代償は機能せず、たくさんの人が不幸に遭っている。
だというのに人間は、自分のために、誰かのために人間同士で争いあっている。人生は短くとも、譲れないものがあるというのもまた、至極当然の話ではあるのだが。

神は理不尽かもしれない。人生はひどいかもしれない。それでも私は、「神」に縋りながら、この人生を生きてゆく。

<主要参考文献>
・C・G・ユング『ヨブへの答え』林道義 訳 (みすず書房,1988)
・ヨブ記(口語訳)-Wikisourse https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%96%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)

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