「国立戒壇は田中智学の造語」の大嘘 創価学会の闇を暴く②

「支配階級の上に拳銃を向けて彼を撃つと云ふことは、それは不動明王が降魔の剣を振ふ如く降伏の姿ですから、それは大慈悲心である、私共は慈悲とか何とかさう言つた相対的な観念はありませぬ、併し此の折伏こそ、徹底した本当の大乗仏教の慈悲だと思ひます。」(井上日召)

「偽仏教と、偽法華を速やかに亡ぼせ。真宗教、真日蓮主義を、認識実行せよ!わが祖国の為に、わが主義の為に、わが宗教の為に!血を流せ、戦つて、死ぬ事だ!やらう、同志よ、是非、死なう!」(日蓮会殉教衆青年団)

「敗戦の原因は国民道徳の驚くべき低下にあり敗戦は国民をして反省懺悔して国体に対する信仰に徹し、全力を以て最終戦争を準備せしめんとする神意なり」(石原莞爾)

特に意味はありませんが、良い言葉だったので冒頭にもってきました。さて、「国立戒壇という言葉は田中智学が日蓮正宗から盗んだ」説についてなんですが、大石寺派の主張だけ聞くのも公平性に欠ける気がしてきたので、国柱会と、田中智学の第一高弟だった(大百蓮華1957年9月号)山川智慶が立ち上げた本化妙宗連盟に聞取り調査を実施してみました。本当は里見岸雄の日本国体学会あたりにもあたっても良かったんですが、個人的にインテリが嫌いなので学術団体(?)は割愛しました。また、大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』(2019年)の記述についても備忘録的に記録しておきました。

(1)国柱会への聞取り
2度電話で質問してみたんです。「国立戒壇という言葉は田中智学が日蓮正宗から盗んだと顕正会から聞いたが本当か?」と。しかし、一度目は「今日は研究所の職員が休みで分かる者がいない」。二度目は研究所の職員に繋がったのですが、「そういった質問は私には答えられない。答えられる者は高齢で電話に出られないからメールで質問して欲しい」と非常に事務的かつ既成宗教みを感じる対応。大百蓮華で「骨のある幹部はすべて国柱会を捨て去り、葬式仏教になり下がった」とdisられていたのはこういうことだったんですね!まぁ、自分で言うのもなんですが、会ったこともない人間に「お宅の教団の創立者は盗人か?」と聞かれる国柱会にも同情してしまいますが。しかし、かつて法国冥合・一天四海皆帰妙法を標榜し、全世界を相手にイキリ散らしていた教団の末路としてはいくらなんでも悲しすぎではないでしょうか。気が向いたらメールで質問します。

(2)本化妙宗連盟への聞取り
こちらも2度電話してみました。大百蓮華で「方々でビラをはって講演会などを開いているが、会員は2、3百名にすぎない」とdisられている通り、小規模な教団のようで、土日は繋がりませんでした。HPでも「比較的小規模な団体ながら、世界各地に拡がる少数精鋭の信行者の法力を結集し(以下略)」と書いてありますからね。
妙宗連盟は国柱会と違い、「顕正会は統一教会と同じ!今すぐ辞めたほうがいい!」と熱い回答。旧統一教会の賛同会員もやってるなんて言えませんでした。「言葉を盗んだなんて言うこと自体誤り!」「顕正会や創価学会なんて近づいたらダメ!」「日蓮本物論は誤り!」「日蓮大聖人は世界絶対平和、妙法蓮華経による世界統一を望まれている!」「宗教同士が仲悪くなるくらいなら念仏や禅をやっていたほうがいい!」。こういう応答を期待していたんですよ!ありがとう!
しかし、肝心の「国立戒壇は田中智学の造語なのか」には明確な回答がありませんでした。機関紙と書籍を送ってくれるらしいので、その中に書いてあるかもしれません。

(3)『日蓮主義とはなんだったのか』の記述
関連する記述は、「第1章 田中智学と日蓮主義の誕生」に「国立戒壇は田中智学が名づけた」「『国立戒壇』の用語は、戦後一時期の創価学会に継承された」とあり、また、「終章 焼け跡に仏国土を!」にも「創価学会の国立戒壇論は『国柱会譲り』のものだった」「顕正会は現在も『国立戒壇』の語を堅持している」とある。さらに、国立戒壇の定義として「日本をはじめとする全世界の人びとがこの妙法七字に帰依する一天四海皆帰妙法のときに建立されるべき本門の戒壇」とある。大谷栄一氏は「国立戒壇は田中智学の造語」派らしい。ヤバい!日蓮正宗、創価学会に続いて学術研究者までもが顕正会の主張を否定する立場だとは!もっとも、大谷氏は浄土宗系の佛教大学で教授をやっているらしいから、浅井昭衛大先生への大忠誠をもって、「邪宗門」の言うことなど一笑に付すこともワンチャンできるかもしれない。

(4)一縷の望み
「国立戒壇」だけでなく「八紘一宇」の言葉についても「田中智学の造語だ」(Wikipedia)と言われているが、実は前掲書によると「新たに調査したところ、初めて用いたのは、清水梁山だったことがわかった。」らしい。つまり、「田中智学の造語だ」と言われている言葉でも、実はそうではない可能性が残されているのだ!

(5)まとめ
前回同様、国立戒壇が田中智学の造語なのかは依然として不明である。しかし、井上日召の言葉に「善悪不二 邪正一如」(善悪や正邪の区別はなく、等しく真如のあらわれである)とあるように、国立戒壇が田中智学の造語であっても、そうでなくても、結局顕正会は正しいのである!問題は行動である。いくら机上の議論に明け暮れても、行動が伴わなければ意味がない。一人一殺!