【劇評/渋革まろん】座・高円寺CTAラボ『東京トワイライト ー強盗団と新しい家ー』
2024年2月に上演した、CTAラボ『東京トワイライト ー強盗団と新しい家ー』。批評家として活動中で、座・高円寺の劇場創造アカデミーの修了生でもある渋革まろんさんから劇評が届きましたので紹介します。
〈ポスト欲望の人間〉とリテラルなものの露出
1.配置=展示される身振り
先日、知り合いとの雑談で聞いたところによれば、『東京トワイライト』には、いくばくかの“拒否反応”があったようだ。いわゆる“普通”の会話劇であるようでいて、そういうわけでもない本作の“難解さ”に対する困惑、と言ったらいいだろうか。物語の筋はある意味で非常に単純だ。座・高円寺のHPの作品解説に、
この劇は、「夫婦が新しい家を建てる話」「強盗団が強盗をする話」「仕事を解雇された女性が爆発物を製作する話」の三つが併存して進行します。
と書かれているとおり、夫婦、強盗団、爆破テロを起こす女性を軸にしたエピソードで構成されるテクストでは、人物の内面や背景がほぼ描かれないことをのぞけば「事件」だってしっかり起こる。にもかかわらず、本作の上演は観客にある種の困惑をもたらすものであった。
その主たる要因は、劇場の機構それ自体がむき出しになったような座・高円寺1の空間に、CTAラボの9名の俳優たちがなんらかの“テキトー”な身振りを置いて立ち去る、という特異な形式にあることは間違いない。松田正隆は『長崎を上演する』(2013-2016)以降、本作に連なる“ミニマルな”上演形式を発展させてきた。演技の面においては、“テキトー”な身振りがその最大の特徴といえる。それを内野儀は「エアー演技」と呼称していた。
「外形的な模倣に過ぎないという軽さと緩さ」を持ったエアー演技が、身振りを“配置”するアンサンブルの構成においてその効果を高めていく点にも注目しよう。本作の上演に流れる時間は、ドラマの筋が“進行する”というよりも、剥き出しの空間に”配置”された人物がそのつどごとに“図柄”を変えていく、と述べるほうが適切なのだ。
たとえば上演の冒頭では、ひとりの俳優が舞台奥に立ち、ついで2人目、3人目、4人目……の俳優が舞台の中央、前面など別の配置につき、全体の“図柄”が動的に変化していく。そのうち3人の俳優は気づけば舞台前面の上手に並んで立ち、整列して下手に移動。いつの間にか両腕を前面に突き出して指を丸く曲げた格好で歩いてきた──つまり「運転」の身振りを身体化した──ひとりの俳優のうしろに“配置”され、舞台中央で横並びになったかと思うと、足を踏み鳴らしながら腕を振り下ろす動作、つまり「空き巣」あるいは「強盗」の状況に結びつきうる身振りを行うのである。
さらに、ボソボソ喋りと言葉数の少ない会話は、精密さの欠けたエアー演技の身振りを、美術館で展示物を眺めるような静寂のなかに置いて強調する。だから観客は、ドラマチックな盛り上がりを見せることもなく、ただ淡々ともろもろの身振りが配置されて図柄が変化していくさまを忍耐強く見続けなければならないのである。
否定的にも描き出すことができるこのストイックな形式は、確かにある種の困惑を呼ぶものかもしれない。しかし、それではなぜ本作はこのような形式を必要とするのだろうか? この形式を通じて、いったい何が実現されている、のだろうか?
2.究極の現実へ
本作の戯曲には極めて対照的な2つの犯罪が書き込まれている。強盗殺人と爆破テロだ。強盗団の三人は、何度か強盗を繰り返すうちに警察に追われる身となり、そのうちの一人は、「新しい家」を建てた夫婦の新居に侵入し、夫婦を殴り倒すことになる(明示はされないがおそらくこれで夫婦は命を落とす)。また一方で、上司に歯向かって解雇された女は、家に引きこもって爆弾づくりに没頭したのち、街頭演説をする政治家に向かって爆弾を投げつける、無差別テロを起こす。
どちらも反社会的な犯罪行為であるが、強盗殺人はまだどこかしら人間らしさを残しているように見えるのに対して、女が起こした爆破テロは非人間的なものに見える。その理由は単純で、爆破テロはいわゆる「動機なき犯罪」であるからだ。なぜそんなことをしたのか、政治的な意図も、私的な怨恨といった類の感情的な動機も戯曲のセリフから読み取ることはできない。一種の自殺に近い女の爆破テロから思い起こされるのは──もう15年ほど前になるが──大澤真幸が見田宗介の図式を発展させて、「不可能性の時代」と名付けた時代精神である。(大澤真幸『不可能性の時代』、2008、岩波新書)。大澤によれば、日本では90年代なかば以降に、消費資本主義や多文化主義と名指される、現実が記号的に消費される「虚構の時代」の力学が徹底的に推し進められた結果、災害、戦争、病気、犯罪など不確実性をはらんだ危険なものがリスクとして徹底的に除去(虚構化)されていき、各人の生きている現実を他ではありえない必然的なものとして肯定してくれる普遍的・特権的な物語が相対的・趣味的な小さな物語(虚構)に解体されたという(他者の文化、宗教、ジェンダー、セクシュアリティ等にかかわる多様性への寛容を求めるリベラルな規範が結果的に帰属するアイデンティティの普遍性・特権性を解体するように)。
しかしそのように自身の生/アイデンティティが幻想的な虚構に過ぎないものとして相対化され、生の必然性(信じられるもの)を喪失した主体が決して相対化されない「現実」を渇望したとき、それは虚構の意味を媒介しない自傷行為から嗜癖的な恋愛依存、自爆テロから原理主義的な熱狂まで、極度に暴力的・破滅的な衝動となって立ち現れる。犯罪や暴力を糾弾し多様性の尊重を唱える善き市民こそが、じつは多様な物語が偽物(虚構)でないことを保証する「真理」としての「現実」=暴力的・原理主義的熱狂を必要としている。大澤はこのようなロジックで暴力的な「現実」そのものが欲望される「不可能性の時代」の傾向を分析した。
ところで、爆破テロの被害者となった政治家は、
「誰もが元気で輝ける街。心のバリアフリーをすすめます。(…)貧困、孤立を見逃さず、安心して暮らしをつづけられる街。みなさん、未来にツケを残さない街は、現実を直視する街なのです。(…)」
と、異様なまでにテンプレ化=虚構化された演説を行っていたのだった。大澤の提示した視座を参照するならば、爆破テロを起こした女の矛先は、この政治家にではなく、ましてや政治家の唱える政治思想に対してでもなく、それを生きることが決してできないテンプレ化=虚構化した現実そのものに向けられていたとみなさねばならない。自己自身の意味を支えていた会社の所属(物語)を失った女は、爆破テロという極端な暴力を行使することで──物語的な意味を介することなく──本来あるべき特権的な「現実」を奪還しようとしたのだと。「私は、行き着くところがここだった」という女の言葉を奪還された「現実」への悲哀の滲む肯定として受け取ることは十分に可能だろう。
確かに戯曲の解釈としてならば成立しそうな読みではある。しかし、上演の水準において、エアー演技の効果を加味したとき、この解釈にはある種の無理が生じてしまうことも指摘せねばならない。なぜなら、爆破テロを起こす女のエアー演技は、破滅の熱狂にともなうカタルシスを、甘美な享楽をキャンセルしてしまうからだ。女は砲丸投げのようなスローイングの身振りを繰り返し、爆破テロのリハーサルを行う。そして決行当日もリハーサル通りにただ淡々とスローイングの身振りを遂行する。しかしそのスローイングの身振りは爆破テロを表象するのではなく、脱意味化されたリテラルな──見たままの──事実として舞台上に配置され、タバコを吸う、運転する、内見するなどの諸意味と結びつく他の身振りとフラットに並べられてしまう。破局の特権性が剥奪されてしまうのだ。
直接的な「現実」への欲望が不断に無化されていく本作の形式は、「不可能性の時代」の社会的・心理的機制の論理をどこか越え出ている。それでは本作では現実を意味づけるいかなる視座が示されているのだろうか?
3.エアー演技のリテラル性
2020年代の半ばに差し掛かる現在、00年代に大澤が論じた破滅的な現実への渇望と虚構への耽溺のベクトルに引き裂かれつつそれが奇妙に合致する「不可能性の時代」のパラダイムが終焉したわけではないだろう。むしろ松田の演劇的実験は「不可能性の時代」のパラダイムに明確に呼応するかたちで展開してきたと言っていい。
均質な明かりに満たされた空間のなかで、あらゆる身振りが脱文脈化されたリテラルな事実としてフラットに展示されるこの形式は、身振りからドラマ的な必然性を剥奪し、相対的な可能性の空間に置き直す。じっさい、舞台では三人組の強盗を眺める「野次馬」の身振りが夫婦の「内見」の身振りに移り変わり、殴り倒された夫婦は政治家の演説のさなかに寝転がるものとなり、スローイングの身振りが反復されるときそれは(警察に?)取り押さえられる身振りに変形している。このように、見たままのリテラルな事実としての身振りは、それ自体としての意味作用から常に逃れ続け、そのつど使用される文脈に応じて、事後的・付加的に何かを意味していたことになったという仕方でしか認識することができない。
先立って引用した内野の「エアー演技」の定式ではすべてが「省略形」であると記述されていたが、これはミスディレクションではないかと思う。そもそも正確な精密さや誇張性が欠如した身振りはある種の「曖昧さ」を含み持つのだから、「省略」されているとは言えないだろう。むしろエアー演技は、意味性を剥奪されたリテラルな事実そのものに潜在する「〜ではないかもしれない」の構造においてつねに過剰なのだ。
強盗は強盗ではなく内見する夫婦であったかもしれない、殴り倒された夫婦はホームレスだったかもしれない、爆破テロは完遂されず未遂のまま取り押さえていたのかもしれない……もちろんこれは一例に過ぎない。ドラマティックな熱を持たないエアー演技がそれでもなお独特の緊張感を持ちうるのは、「〜をなすことができる」というポジティブな力能ではなく、「〜をしないままでいることができる」というネガティブな潜勢力において無数の他でもありえた可能性を凝集させているから、ではないだろうか? それゆえにエアー演技の身振りは ──大澤の用語を借りれば──他でもありえたかもしれない偶有性の感覚を惹起するのである。だとするならば、エアー演技もまた徹底的な虚構化が暴力的な「現実」を到来させるメカニズムの一部を成していることになる。大澤が論じていたのはまさに「〜かもしれない」の相対的な偶有性に耐えられず、それを強引に運命的な必然性に転換しようとする欲望が極端な暴力を招来させるロジックだったのだから。
しかし、「不可能性の時代」の言説が、あくまでも本来あるべき理想を追い求める人間らしい人間をモデルとしていたことに注意を払うべきだ。相対性に耐えられないのは、そもそも彼/彼女が人間性の回復を希求しているからである。先に確認したとおり、暴力的な「現実」への渇望は、自然に与えられた環境の特殊性(虚構性)を反省し、乗り越え、本来あるべき特権的・普遍的な物語(真理)を求めてしまうからこそ生じる。それはいわば動物的な快楽の満足に留まろうとはしない人間的な欲望の現れと言える。だが、ここでもしも与えられたものの反省と克服が決定的に断念されていたらどうだろうか? 人という生きものは自己の偶有性に苛まれることも、従来の意味での「人間」であることもやめてしまうだろう。そしてまさにエアー演技の形式によってリテラルな事実に還元された女の身振りからは、破局をとおして本来あるべき物語に跳躍しようとする欲望こそが消失しているのである。つまり、女のエアー演技は、人間の人間性が失効したあとの生の様態を露呈させるものだったのではないか。
4.〈ポスト欲望の人間〉──表象から露出へ
私は本作を観劇したあとにひとつ思い出したことがあった。サンプルの劇作家・演出家の松井周が仮説的に命名した「ポスト欲望演劇」である。松井は「ポスト欲望演劇をつくろう」という講座の説明で、人間の「〜したい」という欲望を可視化する演技によって成立するのでは〈ない〉演劇を「ポスト欲望演劇」という名で仮称した。松井は欲望を原動力にした演劇の終わりを、すなわち〈ポスト欲望の人間〉の出現を予感している。そして、ここで松井の抱いた予感は、エアー演技の形式によってすでに具現化しているように思われたのだ。
本来あるべき現実や理想を目指す人間的な欲望のメカニズムが無化される〈ポスト欲望の人間〉。その様態を見定めるためにひとつの補助線を引いてみよう。松本卓也は現代ラカン派の変遷を論じる著書(『享楽社会論 現代ラカン派の展開』、2018、人文書院)において、本来は〈法〉に対する侵犯という危険な賭けによって得られる「享楽 jouisance」が、次々に目新しい商品を提供し続ける消費社会の「享楽せよ!」という命令を実現する制御可能な「エンジョイ enjoy」に変貌したことを指摘している。さまざまなサービスを通じて主体の要求が手軽な享楽によってすぐさま満足させられる消費資本主義の体制下では、原初に失われた不可能な享楽(欠如)を無限に追い求める欲望のメカニズムが無効化されるのだという。
資本主義の即時的な満足は欠如が駆動させる欲望を無効化する。確かに私たちの生活は一切の迂回路(不快)を許さないかのように、お気に入りのものを繰り返し享楽=エンジョイするためのサービスに取り囲まれている。スマホゲームはタップの快楽を、SNSは距離を抹消した瞬時のコミュニケーションを、youtubeは各種チャンネルの多様なコンテンツを、Uber Eatsは外出する労力すら省いた食事を…。そしてそのどれもが有用性の合理的な判断を超えて、麻薬的な依存性を呼び起こすものだ。依存的・消費的な享楽(エンジョイ)による喪失(欠如)の否認は、欲望に課された我慢や迂回、異質な他者の世界に身を投じる居心地の悪さを徹底的に遠ざけることで、いま与えられている快を中断し、否定し、不断に乗り越えていく人間的な欲望を機能不全に陥らせてしまう、というわけだ。
つまり、いまや現実の肯定に悲劇的な救済や破局などといった誇大妄想的な物語は不要なのだ。「はい論破!」の小さな熱狂がそれに取って代わったと言ってもいい。このような補助線を引いてみたとき、爆破テロを起こした女の身振りは、人間性を放棄した依存的な享楽=エンジョイを端的に示しているのだろうか? 享楽の命令に暴走する身体を? いや、その見方はおそらく二重の意味で的を外している。本作は、欠如が埋め立てられた〈ポスト欲望の人間〉における、依存的な享楽と拮抗する二つのモードを示しているように思われるからだ。
松本が参照する立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う』(2013、河出書房新社)に目を向けてみよう。立木は欲望の機能不全を「表象から露出へ」のタームによって捉えようとする。単純化すればそれは次のような心的体制の変容を指している。いわく、抑圧された欲望の隠喩的な表現(症状)は、目の前にないものを別のもので示す代理=表象の構造を持ち、複雑な解釈を必要とする。ところが、「享楽せよ!」の命令は、抑圧された「心の闇」として内面にしまい込まれるはずの欲望をすぐさま発散させて身も蓋もない露出へ駆り立てる心的体制を作り出す(SNSにレッテル貼りの意見や私的な感情が脊髄反射で垂れ流されるように)。つまり、表象の論理とは異なるものとしての「露出」は、秘められるはずの「内面」、そして他者を誘惑する無意識の含蓄(エロス)を欠いた解釈の余地がない「ただの身体」を、剥き出しのままに「ダダ漏れ」させてしまうのである。
ひるがえって、身振りを見たそのままのリテラルな事実に還元するエアー演技は、立木の提示した「露出の論理」を彷彿とさせないだろうか。本稿の舞台の記述に妥当性があるとするならば、ここでは想像力によっていまここにないものを代理=表象するリアリズム演劇の基本的な原理が放棄され、均質な明かりに照らされたいまそこにある「ただの身体」が剥き出しの仕方で露出しているのである(だから彼/彼女らには解釈すべき内面もない)。欲望を可視化する演劇の場合であれば、登場人物(他者)の謎めいた表象(抑圧された欲望)の解釈が要請され、その表象の奥深さに観客は衝撃を受けたり感情移入をしたりするわけであるが、抑圧された欲望の不在によって特徴づけられる「露出の論理」では、提示された身体を──展示物を眺めるように──ただそれそのものとして受け取るほかない。だから『東京トワイライト』の観客に困惑をもたらしたものは、エアー演技のまずさでも、作品の難解さでもなく、エアー演技の身振りにおいて出来した〈ポスト欲望の人間〉という解釈の余地がない剥き出しの身体に対するそれ、だったと了解可能なのである。
しかし、最後に付け加えるべきは、エアー演技による剥き出しの身体の露出が、享楽の「ダダ漏れ」によってもたらされる欲望の枯渇というだけではなく、そこからの逃避あるいは拮抗という二つのモードとして位置づけられることだ。大澤は不確実な現実を記号化する虚構の体制(消費資本主義)から破局的な現実(特権的な物語)への逃避を「不可能性の時代」として活写したが、『東京トワイライト』では、特権的な物語への欲望が衰退したあとの、動物的・依存的な享楽がもたらす過剰な刺激の耐え難さからいわば「無為」と名指しうるようなリテラルなものへの逃避が印付けられているのではないか。実際、物音一つ立てられない静寂の充満は、劇場を享楽からの避難所に変貌させるにふさわしい。
ただし、爆破テロを起こした女が爆弾を投げる身振りの練習を繰り返していたことを思い起こすならば、むしろエアー演技は逃避ではなく拮抗を示唆することもまた確かなのだ。先に確認したように、それは爆弾を投げる練習ではない。爆弾を投げることと結びつきうる身振りの練習をすること、すなわち「投げる」とも「投げない」とも言えない「爆弾を投げないこともない」未成の圏域を身振することなのだ。繰り返し行われる身振りの練習は「〜しないままでいることができる」潜勢力の構造において、欲望の達成(享楽)を無際限に引き伸ばし、享楽への駆り立てと拮抗する「〜かもしれない」偶有性をはらんだ未成の場所を開くのである。
ダダ漏れと欲望の枯渇が相互補完的に構成する〈ポスト欲望の人間〉は、あるべき自己を欲望することも自己の偶有性に苛まれることはないかもしれない。しかし、爆弾を投げうる身振りそれ自体の偶有性を引き受けることを通じて〈他なるもの〉に変態する欲望の孵卵とその露呈を可能にするのだ。こうしてエアー演技の爆弾を投げうる身振りは、破局の手前にとどまり、動物的・依存的な享楽に引きずり込むあらゆる帰属の物語── セクシュアリティ、家族、会社、地域、民族等──と拮抗しつつ、剥き出しの〈他者〉、〈他なるもの〉と出会いうる場を準備する〈ポスト欲望の人間〉のドラマを出来させたのである。
渋革まろん
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?