境界線:都市空間と時間感覚と人間感性

東京には血が染み付いている。
Nhk紅白歌合戦の舞台には往年の歌い手たちの血が。
渋谷には繰り返される再開発と絶え間ない夜の喧騒が。
上野には世界各地から集められる美術が。

いいものも、醜いものも強烈に大量にある。
それはそこにたくさんの人が集める強烈な魅力。
人が過密になり都市空間はぎゅうぎゅうに。それでも魅力は守られ続けて、東京に洗練されたものが残ってる。本物が集められる。
でも、本物のはずが、どこかウソっぽくなる。
それは境界線の問題。
過密になった住空間と、本物の価値を持つ公的空間が互いに鬩ぎ合い、境界線が強く意識される。
都市空間自体が、物理的な敷地境界線において、所有の問題で緊張関係にある。

それは人間同士のコミュニケーションにも現れる。個々人のコミュニケーション能力は高く、洗練されていても、個々人同士の繋がりは、ゼロか100か。というかんじ。

ゼロか100か、は、イメージが乏しい。
ほんとうの学びとは、豊かなイメージに裏付けられる。言葉の意味は、デジタル的なものじゃなく、豊かなイメージを含んでいる。

例えばきっと、土着的な集落には豊かなイメージを感じる。
日本家屋にそれを感じる。洋風建築にはそれほど感じない。

それはきっと、日本家屋のほうが遺伝子レベルで豊かなイメージを想起させるから。

便利なものや本当に価値あるものや多くの人間やその醜悪さが集められ、ツギハギだらけの都市空間にウソっぽさをかんじるのは、間違いじゃない。

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