回復する為にする喪失
親から名前を呼ばれる経験に乏しく成人し、社会人となって名前を呼ばれる度に緊張し、自分がなんの理由でここにいるのかも分からず、自己主張など発想できない。
この自分と状況の間に繋がりがない。繋げるための自己紹介ができない、説明が一切できない。言葉がでない。つまりそこでは、自分の名前が力を込めて呼ばれることがない。そんなところに居続けては当然、自分の人間性は破壊されていく。実際に破壊されていた。ここにきて中身がないと感じるようになった。
自分は悲しいと思う。
それから、自分が悲しいと感じる。
それから、親も社会も世界も悲しくなる。
名前を呼んでくれた人に反応し、身体が動く。名前を読んでくれるものを発見し、心が動く。
お金のためには働けない。社会のためにも働けない。家族のためにも働けない。
自分の名前が、自分の名前のように感じる声や状況の中でないと、頭も身体も心もなくなっていく。
ここででた、なくなる。
実はそう、今までがなくなっていた。それなのに、喪に服していなかった。自分の名前は死んでいた。生きている自分の名前は過去から現在にかけて別の時空を生きている。自分がいるのは死んでいる時空のほうだった。
喪に服さないと。悲しまないと。
死んでいた自分自身のこと、可哀想に。
何も頼りにならないまま、人前に出て何かを表現する悲しさを。その無力さを
頼りにならない。便りにならない。宛名もない手紙を書き続けていた長い時間を。
ここにいなくていい自分を、ここから離れて去っていく自分を。
オフィスビルを離れ、タワーマンションから離れ、街を離れて地方へ旅に出て、地方を離れて海へ、空へ、黒へ、黒を離れて白、白を離れて無、そこでまた全てと出会ってしまう
ひとつの輪っかはどこまでいっても堂々巡りだけど、その輪っかすら閉じることができないのは、喪失というピースが欠けているから。
死んでいた自分に気づけないままでは、いつまでも別の人生に進めない。死んでいたことを発見する出会い、そして喪に服し、弔って輪を閉じる。
とじた輪っかの嵩なりあいと、閉じない輪っかの繋がりあい。自分は、閉じた輪っかの嵩なりかたに興味がある。閉じない輪っかの繋がりは手に負えない。
この際、改めて数寄に生きてみたい。じゃないと孫に説明がつかない。自分がどうして自殺せずにいられるのかを。
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