富士大石寺顕正会「2020(令和2)年・11月度総幹部会」での 浅井昭衛会長の講演を読みました -顕正会の「遥拝勤行こそ邪義の証」-

1.顕正会の「遥拝勤行こそ邪義の証」

 顕正新聞に「『遥拝勤行こそ忠誠の証』特集号」と銘打たれている通り、富士大石寺顕正会会長・浅井昭衛氏が行った11月度総幹部会の講演は、「遥拝勤行」に関する珍説・奇説に終始された内容であった。
 最初に端的に浅井氏の講演を引用する。毎度のことだが、講演を全文読みたい方は、富士大石寺顕正会の公式ホームページを参照して頂きたい。

■引用(顕正新聞令和2年12月5日号より)
【1】
 そして本門戒壇の大御本尊こそ、大聖人様の大慈大悲の結晶であることを教えて、朝晩 怠けずに遥拝勤行に励むことを勧めてほしい。
 素直に遥拝勤行に励めば、そのお題目は直ちに戒壇の大御本尊に通じて功徳が出てくるのであります。

【2】
 遥拝勤行こそ、大聖人様への「忠誠の証」なのです。

【3】
 もし顕正会が宗務院の命令に従って、「国立戒壇を捨てて正本堂を御遺命の戒壇と認めます」と言っていたら、解散処分などはなかった。顕正会は安穏であった。
 だが私は、顕正会の安穏よりも大聖人様への忠誠を選んだ。そして遥拝勤行による広宣流布の御奉公を決意した。
 ゆえに「遥拝勤行こそ忠誠の証である」というのであります。
 信心に距離は関係ないのです。たとえ戒壇の大御本尊様からどれほど遠く離れた地に住んでいようとも、大聖人様を恋慕渇仰して、大聖人の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れば、そのお題目は直ちに日蓮大聖人様に通ずる、戒壇の大御本尊様に通ずる。そして大功徳を頂き、臨終には成仏の相を現ずることができるのです。
 ゆえに大聖人様は、身延より千里を隔てた佐渡に住する千日尼に対し
「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞こゆ。
 御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」
と仰せ下されているのであります。
 もし御遺命に背いたまま登山したら、かえって大聖人様のお叱りを受ける。そのことは内房尼御前の故事を見れば明らかですね。

2.浅井氏が言う「遥拝勤行」とは何か

 始めに浅井氏が言う「遥拝勤行」について確認したい。一般的に「遥拝」とは「はるかに隔たった所から拝むこと」を意味しており、仏教の言葉ではない。また、拝む対象とは、弘安2年10月12日に御図顕されたとされる所謂「戒壇の大御本尊」を指す。
 よって、「遥拝勤行」とは、顕正会員がそれぞれの場所から、大石寺の奉安堂に安置されている弘安二年の御本尊の方向に向かい、読経・唱題することを意味する。
 ちなみに、御書に「遥拝勤行」に関する御指南はない。日蓮正宗においては、丑寅勤行の終了後、法主が大石寺客殿の西側に設置された遥拝所より、弘安二年の御本尊を拝する化義のことを指す。この化儀も後代にできたものであり、日蓮大聖人の時代にはない。
 一般的には、戦時中に天皇への忠誠を誓わせるため、皇居に向かって敬礼を行っていた「宮城遥拝」を想起する人も多い。当時の日本は、国民や植民地の人々に「遥拝」を強いていた。

3.「遥拝勤行」に纏わる2つの疑問点

 さて、浅井氏が言う「遥拝勤行」には大きく2つの疑問点がある。
【1】
 1点目は「弘安2年の御本尊に固執する本尊観」である。
 現在、弘安2年の御本尊は、顕正会と敵対する他教団の日蓮正宗が所有している。よって、顕正会員は参拝できない。そのため、浅井氏は〝遥拝〟という手法を思いつき、辻褄を合わせようとした。
 本来であれば、そこまでしてまで「弘安2年の御本尊に固執する」というのであれば、その法門上の根拠、つまり日蓮大聖人が御図顕された「多数の御本尊の中で、弘安二年の御本尊を根本とせよ」と御指南された〝明確な文証〟を示さなければならない。ところが、そのような文証が示されたことは、これまでに一度もない。但し、この点は今回の本題ではないため、これ以上は触れないでおく。

【2】
 2点目には、今回の本題である「遥拝勤行」という形式である。そこで端的に以下に2つの疑問を投げかけたい。

1. 日蓮大聖人及び日興上人は、なぜ多数の御本尊を御図顕もしくは書写されたのか。
 大聖人の教化活動の特色は、多数の御本尊を弟子に授与したことである。1271(文永8)年10月9日にいわゆる「楊枝本尊」を図顕されて以降、1282(弘安5)年10月の御入滅に至るまでの約11年間に御図顕された御本尊は、立正安国会編『日蓮大聖人御真蹟御本尊集』に収録されているものだけでも125幅。一般的な学者の指摘で言えば、未収録、散逸・紛失したものも含めると、さらに多いと思われる。
 では、不二の弟子である日興上人はどうか。立正大学の本間俊文の研究によれば、日興上人が書写された御本尊は、現在確認されているものだけでも308幅に及ぶ。言うまでもなく、当時はすべて自筆である。
 仮に大聖人が「遥拝勤行」を信心修行の根幹としたのであれば、これほど多数の御本尊を図顕されることはなかったであろう。なぜなら、御本尊を弟子に授与する必要性がないからである。それは、日興上人も同様である。
 しかし、不二の師弟はともに、御本尊を命の限り全力を注いで顕され、門下に授与していかれた。言うまでもなく、門下一人一人が、日夜「御本尊を拝する」ことを、末法における信仰の実践として、とりわけ重視されていたからである。
 この一点をとってみても、浅井氏が主張する「遥拝勤行」は、日蓮仏法の本義から明らかに逸脱している。

2. なぜ顕正会は「遥拝勤行」に統一しないのか。
 2つ目の疑問は、顕正会、なかんずく浅井氏の本尊観である。
 顕正会は折伏に際して本尊授与を行わない。それは、先の講演と同じく教義として「遥拝勤行とは、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである」(基礎教学書113㌻)と定義しているからである。つまり教義上は、会員の日々の信仰活動に御本尊は必要ないのである。
 だが、そこまで言っておきながら、会館の礼拝所には、必ず御本尊を安置する。また、全国各地の拠点にも、限定的な本尊下付を続けている。これではまるで、伝統的な仏教寺院が持つ〝秘仏拝観〟と同じ感覚ではないか。
 では、なぜ顕正会はこのような〝本尊観の迷路〟へと陥ったのか。その原因は一つしかない。それは、浅井氏が日蓮大聖人の法門を〝歪曲〟に〝歪曲〟を重ねる〝歪曲の漆塗り手法〟で〝もてあそび続ける〟うちに、「『浅井氏の己義』を根本として、『大聖人の正法』を枝葉とする」という〝邪智顛倒の蟻地獄〟〝大謗法の底なし沼〟へと転がり落ちたからである。
 結局のところ浅井氏に〝まともな本尊観〟はない。あるのは〝漂流する本尊観〟だけである。

4.「御本尊を拝す」意義を考える

 ここで観心本尊抄を通し、日夜御本尊を拝する意義を考えていきたい。
日蓮大聖人は「観心の本尊」のうち「観心」の意義ついて

【御文】
 問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。
(御書240)

〔通解〕

 問うて言う。一念三千の法門の典拠が『摩訶止観』の第5巻であるということはすでに聞いた。それでは、「観心」とはどういうことか。
 答えて言う。「観心」とは「わが己心を観じて自己の生命に具わっている十法界を見ること」である。
 例えば、他人の目・耳・鼻・舌・身・意の六根を見ることはできても、自分自身の六根を見ることができなければ自身に六根が具わることがわからない。明鏡に向かってはじめて自分の六根を見ることができるようなものである。
 たとえ他の諸経の中に所々に六道ならびに四聖を説いているといっても、法華経ならびに天台大師が述べた『摩訶止観』などの明鏡を見なければ、自分の生命に具わっている十界・百界千如・一念三千を知ることができないのである。

と仰せになられた。
 つまり「観心」とは、己心(自分の心・生命)に十界が具わっていることを衆生が観ずることであると示された。ただし、

【御文】
但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ
(御書241)

〔通解〕

 ただ仏界ばかりは現実の上に現れ難いのである。しかし、すでに九界が具わっていることが分かった以上は、仏界もまた具わることを強いて信じるべきであり、疑ってはならない。

と仰せのように、末法の凡夫の生命に「仏界」が具わっていることを信じること、または、凡夫の日常生活における具体的な振る舞いの中に「仏界」を現わしていくことは、簡単なことではないということを述べられる。
 そして、その後同抄では結論として、末法における観心とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える「本尊の受持」によって成就するという「受持即観心」の法門が明かされる。
 また、受持すべき本尊とは、久遠の釈尊を始め、あらゆる諸仏の能生の根源である「法華経の肝心・南無妙法蓮華経」を中心とする姿であることも指南される。以下に関係する御文を引用したい。

【御文】
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
(御書246)

〔通解〕

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足している。私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば、おのずと釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。
【御文】
 此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。

〔通解〕

 この本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、仏(釈尊)は文殊師利菩薩や薬王菩薩らにさえも付嘱されなかった。ましてそれ以外の者に付嘱するわけがない。ただ地涌千界の大菩薩を召し出だして、涌出品第15から嘱累品第22での8品を説いて、この弘通を付嘱されたのである。
 この南無妙法蓮華経の本尊のありさまを言えば、本師(久遠の本仏)が常住する娑婆世界の上に宝塔が空中に浮かび、その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、釈尊の脇士として上行らの地涌の四菩薩が並び、文殊菩薩や弥勒菩薩らは、この地涌の四菩薩の眷属として末座にいる。迹化や他方の大小の諸菩薩は、万民が大地にあって雲閣や月卿を仰ぎ見るように二仏・四菩薩らを仰ぎ見ている。そして、十方から集まってきた分身の諸仏は大地の上にいる。それは、彼らが迹仏であり、その国土が迹土であることを表わすためである。
 このような本尊は、釈尊の在世50余年の間にはまったくなかった。法華経が説かれた8年の間にも涌出品第15から嘱累品第22までのただ8品に限るのである。
 正法・像法時代の2000年の間は、小乗教の釈尊は迦葉と阿難を脇士とし、権大乗教および涅槃経・法華経迹門などの釈尊は文殊菩薩や普賢菩薩らを脇士としている。正法・像法時代には、これらの仏は造り画かれたが、いまだ寿量品の仏はいらっしゃらなかった。この寿量品の仏のすがたは、末法の時代に入って初めて、出現させるべきものだからだろうか。

5.「御本尊」は私達の生命の明鏡

 ここまで観心本尊抄を拝読してきたが、私達が「観心の修行」として日夜「御本尊を拝する」意義は、自分の生命に具わる「事の一念三千」、つまり自分の生命の「南無妙法蓮華経を中心とする十界互具」を顕現するための唯一の明鏡が「御本尊」だからである。
 先ほども「但仏界計り現じ難し」(御書241)との一節を拝したが、末法濁世に、凡夫が自己の生命に内在する仏界(性)を、なにものにも妨げられることなく発揮し続けていくことは非常に困難である。だからこそ、日蓮大聖人は御内証に成就された南無妙法蓮華経と一体の久遠元初自受用身の生命を、「日蓮がたましひ」(御書1124)として文字で認め、御本尊として顕して下さったのである。
 日女御前御返事に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり」(御書1244)と仰せの通り、大聖人が御本尊を顕して下さったことにより、御本尊を明鏡として勤行・唱題を実践することで、末法万年の誰もが平等に、胸中の本尊を、胸中の仏界(性)を、涌現できるようになった。まさに、全人類に一生成仏の大道を拓いてくださった「御本尊」なのである。
 その上で、「御本尊」を「明鏡」とすることについては、御義口伝でも「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり」(御書763)と仰せである。つまり、「己心の宝塔」は、それを見る明鏡がなければ誰も見ることができない。そこに、大聖人が御本尊(明鏡)を顕された意義があるということである。
 そして、観心本尊抄の結語では、

【御文】
一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う
(御書254)

〔通解〕

一念三千を知らない衆生に対して、仏は大慈悲を起こし、妙法五字の内に、この一念三千の球を包み、末代幼稚の頸に懸けさせるのである。

と仰せになり、大聖人の御本尊は「広宣流布のための御本尊」であることを明確に指南されたのである。

6.日頃から拝する「本尊」を重視さていた日蓮大聖人

 余談になるため端的に記すが、日蓮大聖人が信仰の対象として、日常の生活の中で日夜拝する「本尊」を重視さていたことは、諸御抄からも伺える。
 初期の御抄で言えば、「本門の本尊」を図顕される10年以上前にあたる1260(文応元)年に著された「唱法華題目抄」で、「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり」(御書12)と述べられている。
 また、御入滅の4年前にあたる1278(弘安元)年には「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(御書365)との問答から書き起こされる「本尊問答抄」を御述作され、門下が信仰の対象とする御本尊について、甚深の法門を指南されている。
 ちなみに同抄は、結語で「他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ」(御書374)――これからは、他事を捨ててこの御本尊の御前でひたすら後世を祈っていきなさい。――と述べられ、授与した御本尊をひたぶるに受持し、日夜、読経・唱題に励むことを期待されている。

7.万人成仏の道を閉ざした浅井氏

 御書を研鑽すればするほど、「御本尊を受持」し、「日夜、御本尊を拝して」、勤行・唱題に励むことが、どれほど大事なことであるかが鮮明になる。
 だが浅井氏は、これら甚深の御指南を、邪心によって〝歪曲〟し、「遥拝勤行」などと己義を構え、末法の根幹の修行である「御本尊を受持することが即観心(受持即観心)」を、「或は捨て或は閉じ或は閣(さしお)き或は抛(なげう)つ」(御書23)たのである。「遥拝勤行」という「此の四字を以て多く一切を迷わし」(御書23)たのである。これほどの「大謗法」があるであろうか。
 そして、この愚かな指導者を信じて、謗法と知らずに謗法を重ね、不幸の坂を転がり続けている顕正会員もまた、誠に哀れである。〝未だ一度も見たことがない〟弘安2年の御本尊を「遥拝」などと言って妄想を逞しくしているうちに、己心に巣食う謗法の邪心が念々に涌現し、拝む対境・祈る念力ともどもに、阿鼻の焰(ほのお)に包まれ咽(むせ)び苦しむことは必定である。
 全国の顕正会員には、直ちに浅井昭衛氏を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」して頂きたい。それこそが、あなた方の幸福への第一歩だからである。