富士大石寺顕正会「2020(令和2)年・9月度総幹部会」での 浅井昭衛会長の講演を読みました②

1.撰時抄の御精神を踏みにじった浅井昭衛氏

 前回の「現当二世」に続き、今回は撰時抄の御精神を〝歪曲〟し〝踏みにじった〟浅井氏の悪質な講演を検証したい。
 今講演で2度引用された御文がある。それは撰時抄に仰せの「前代未聞の大闘諍」である。それでは最初に、関連する浅井氏の講演を端的に引用したい。

■引用(顕正新聞令和2年10月5日号より)
 この対決(筆者注:アメリカと中国の対決)は、世界の覇権を賭した戦いであるから、やがて全世界を巻き込む。そして最終的には核兵器をも使用する大闘諍になるに違いない。
 この大闘諍こそ、まさしく大聖人様が広宣流布の前夜に必ず起こると御予言された「前代未聞の大闘諍」(撰時抄)であり、「一閻浮提の中の大合戦」(四十九院申状)であります。

(中略)

 そして未来には、「前代未聞の大闘諍」起こるとき、いよいよ順縁広布をあそばす。すなわち「前代未聞の大闘諍」の恐ろしさから、いよいよ日本一同が、大聖人様の大慈大悲・大恩徳にめざめるのです。これが順縁広布であります。
 ゆえに撰時抄には
 「前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或いは国を惜しみ、或いは身を惜しむゆえに、一切の仏・菩薩に祈りを懸くともしるしなくば、彼のにくみつる一の小僧を信じて、乃至、皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と。
 また上野殿御返事には
 「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」
と御断言下されている。これ順縁広布の時の姿であります。
 このとき、大聖人様は諸天に申し付けて全日本人が信ぜざるを得ない客観情勢を作らしめ、同時に、無数の地涌の菩薩を召し出だして一国を諫暁せしめられる。
 この地涌の菩薩の大集団こそ、顕正会であります。


 最初にはっきりと言っておきたい。
 日蓮大聖人の仏法は、布教のために戦争を望む宗教では断じてない。
 また、戦争の恐怖心を利用して布教する宗教でも断じてない。
 大聖人が末法万年の人類に残された文底下種仏法は、戦争を引き起こす「元品の無明」を打ち破り、世界平和を実現するために、人間一人一人の「元品の法性」を開花させる大法である。平和建設のための仏法である。
 ゆえに、浅井氏の主張そのものが、根本的に大聖人に違背する〝邪義〟であると断じたい。要するに浅井氏の主張は、大聖人の仰せと真逆なのである。この点〝浅井教〟に騙され加担することが、そのまま社会悪の増長になる。絶対に騙されてはならない。

2.撰時抄を拝す

 ここで撰時抄を拝したい。浅井氏が引用した御文の直前で日蓮大聖人は次のように仰せである。

【御文】
文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし
(御書259)
〔通解〕
これらの経文の主旨は、次のようなものである。すなわち、第五の五百年の時、悪鬼がその身に入った大僧らが国中に充満するだろう。その時に智慧のある人が一人出現するだろう。先に述べた、悪鬼が身に入った大僧らが、その時の国王や臣下・民衆たちを仲間に誘い入れ、その智慧のある人に対して悪口を言い罵り、木の棒で打ち、石を投げつけ、流罪・死罪に処するだろう。その時に釈迦・多宝・十方の世界の仏たちが地涌の大菩薩にご命令になり、大菩薩はまた梵天・帝釈天・日月・四天王などへ命令を下され、その時、天変地異が盛んになるだろう。国主らが、天変地異によって示されたその警告を取り上げないなら、諸天(神々)が隣の国にご命令になり、今述べたような国々の悪王・悪僧らを責められる。もしそうなれば、これまでにない大きな戦乱がこの世界に起こるだろう。

3.御文の真意を考える

 撰時抄は1275(建治元)年、聖寿54歳の時の御述作である。本抄では、すでに御述作になられていた立正安国論や開目抄、観心本尊抄なども踏まえられ、世界広宣流布の原理をより詳細に御指南されている。
 さて、引用した御抄の主旨であるが、これは「立正安国」の原理について述べられている。つまり、「国主等・其のいさめを用いずば」と仰せになられているように、その時々における為政者が「正法を信受するのか」、逆に「正法に違背するのか」によって、一国全体に対する果報に決定的な差が生じるということである。ここで仰せの「国主等」とは、現在の日本では「主権在民」たる国民一人一人である。
 本抄では同様の主旨について

【御文】
いかにいかにとをもうところに頭破作七分・口則閉塞のなかりけるは道理にて候いけるなり、此等は浅き罰なり但一人二人等のことなり、日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし、これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震一天を罰する文永の大彗星等なり、此等をみよ仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすといへども今のごとくの大難は一度もなきなり、南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし、此の徳はたれか一天に眼を合せ四海に肩をならぶべきや
(御書266)
〔通解〕
一体どういうことかと考えてみると、私を誹謗する者に「頭が七つに割れる」(陀羅尼品)、「口がふさがってしまう」(安楽行品)という罰がなかったのは道理であったのである。これらは軽い罰である。ただ一人か二人ぐらいの人が受ける罰である。私は世界第一の法華経の行者である。この行者を謗り、敵対する人を重用する者は、この世界で最大の大難にあうにちがいない。日本国を揺り動かす正嘉の大地震や空一面に現れて日本国を罰する文永の大彗星などがそれである。これらの事実を見なさい。仏が亡くなられた後、仏法を行ずる者に敵対することがあったといっても、今述べたような大難は一度もないのである。「南無妙法蓮華経」とすべての衆生に勧めた人は一人もいない。この功績は、全世界で誰か私と対等に向かい合い肩を並べることのできる者がいるだろうか。

とも仰せになられている。ここでも大聖人は、国全体の災禍の理由を「此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし」と明言され、これらの因果の有り様を「道理にて候いける」とされている。
 ここで大事なことは、大聖人が「道理」と仰せになられている点である。道理とは、物事の正しい道筋である。この道理に則るならば、社会建設の主体者達の中に、正法を信受する人々、正法に味方する人々が増えるならば、福運ある安穏な社会も必ず到来するということである。
 また、日蓮大聖人は本抄で、どれほど末法が進み「元品の無明」が人類を覆いつくそうとも、「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法」(御書258)には、人類の「元本の法性」を顕現し、社会を根底から救済していく力用が厳然と備わっているということも、繰り返し仰せになられている。
 これらの御指南を拝するならば、現在を日蓮仏法に生きゆく私達の広布の闘争如何によって、社会は平和へ、安穏へと大きく伸展していくのである。
 以上雑駁ではあるが、ここまで撰時抄に留められた真意について述べてきた。これらのことを踏まえるならば、上記引用の浅井氏の〝妄言〟について以下のことが断言できる。
・鎌倉時代における日蓮大聖人への迫害が原因となって、日本国にこれから戦禍が起きる、もしくは、世界大戦がおきるという浅井氏の主張は、日蓮仏法の本義から逸脱した〝邪義〟であり〝歪曲〟である。
・ 戦争の有無は人類の境涯の有り様によっておこる不幸な結果であり、日蓮大聖人は戦争の勃発を広宣流布の前提条件とはされていない。
・戦争を望み煽っているのはあくまでも浅井氏個人であって、日蓮大聖人の真意ではない。浅井氏の主張は、大聖人の真意とはまったくかけ離れている。
・ 国立戒壇は大聖人の御遺命ではない。よって、国立戒壇に纏わる世界的災禍の主張はすべてデタラメである。

4.戦い続けられた日蓮大聖人

 日蓮大聖人は衆生の苦悩に寄り添う心情を「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(御書758)と仰せになられた。そして、誰よりも衆生の苦しみを知るからこそ、衆生の幸福と社会の繁栄を実現する方途である「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を禱らん者か」(御書31)との「立正安国の戦い」に邁進された。
 それは三度に渡る「国主への諌暁」が聞き入れられなかった時も、そのような為政者の心根が果報となって二度の蒙古襲来という戦禍へと至った時も、またその後、臨終の間際へと至るまでの晩年にあっても、まったく変わることの無い人間の発心を促す闘争であられた。
 世界を取り巻く状況に関わらず立正安国のために戦い続けること。いついかなる時も人類の仏性を呼び出だす闘争を続けること。絶対に諦めないこと。撰時抄では、大聖人が貫かれたこれらの精神をすべての遺弟が継承すべきことを留め、「されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(御書291)と御指南されている。
 ゆえに、「今」を生きる私達日蓮門下も大聖人と同様に、広宣流布と世界平和のために戦い続けなければならない。「第3次世界大戦を絶対に起こさせない」。これこそが現代の日蓮門下がもつべき根本姿勢であり、ここに大聖人の魂がある。

5.撰時抄と上野殿御返事(梵帝御計事)それぞれの引用御文を考える

 最後に端的に付言するが、冒頭で紹介した講演の中で、浅井氏は撰時抄(引用は御書259から)と上野殿御返事(引用は御書1539から)の両抄からそれぞれに御文を引用し、その二つの御文の趣旨を同じものとして重ね合わせる形で、自身の主張を補強する根拠としている。
 しかし、両抄の引用御文を御抄全体の筋道を踏まえたうえで拝すると、仰せの趣旨はそれぞれに違うということが解る。つまり、浅井氏は「御抄に対する理解が浅薄であった」、もしくは「切り文を故意に悪用した」、のどちらかであったということになる。
 いずれにしても、引用されたそれぞれの御文は、論理的に関係のないものである。

6.浅井氏の〝悪巧み〟の本質

 撰時抄には「爾の時に善無畏三蔵大に巧んで云く」(御書276)との一節がある。つまり、善無畏三蔵が真言を正当化するために、どす黒い魂胆をもって大嘘を思い付き、結果として仏の金言を捻じ曲げたことに対する指摘である。
 いつの時代にも正法を破壊する大慢の者がいるとはいえ、浅井氏の〝歪曲〟や〝すり替え〟の巧妙さは、彼の善無畏三蔵も顔負けの悪質さである。
 日蓮大聖人は種種御振舞御書で「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(御書919)と仰せになられたが、大聖人の仰せを〝歪曲〟し、大勢の顕正会員を誑かす浅井氏は、まさに諸悪の根源である。よって、日蓮大聖人を正しく信奉することを志す顕正会員は、一刻も早く浅井氏と訣別すべきである。つまり「大聖人の法門」を信仰するのか、はたまた「浅井氏の歪曲」を信仰するのか。御書を根本として熟慮すべきである。