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受持即持戒の精神(総論を理解するための小論④です。総論を理解するための手掛かりとして下さい)

 日蓮大聖人の仏法では「受持即持戒」と言われる。つまり、末法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することが、そのまま戒を持つことになるという意味である。
 もともと「戒」とは、サンスクリットのシーラの訳で、仏道修行者が自ら誓い自分に課した戒めのことであり、「防非止悪」の意義があるとされる。加えて、「律」とはサンスクリットのヴィナヤのことで、教団の規則のことである。一般的に日本では同一視されており、まとめて「戒律」と言われることが多い。
 中国仏教で立てられた考え方では戒を四つに分け、仏によって定められた戒についての教えを「戒法」、授戒の儀式によって心に納めて防非止悪の功徳を生ずる本体を「戒体」、戒を持って実践修行することを「戒行」、五戒・十戒・具足戒などの具体的な戒の規定を「戒相」とする。そして、ここに出てくる授戒の儀式を行う場所が、所謂「戒壇」である。
 さて、日蓮大聖人は「教行証御書」で

【御文】
此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持って後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持って法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ(御書1282㌻)
〈通解〉
「この法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものであるから、この五字の内にどうして万戒の功徳を納めていないことがあろう。この万行万善の妙戒は、一度持てば、後に行者が破ろうとしても破ることができないのである。これを金剛宝器戒という」などと言うがよい。三世の諸仏はこの妙戒を持って法身・報身・応身ともに無始無終の仏になられたのである。

と述べられ、あらゆる戒の功徳をおさめた三大秘法の御本尊を受持することが持戒であることを御指南されている。
 戒壇で授戒され持戒を誓う目的は、一生成仏にある。その一生成仏は、生涯に渡り持戒する自分の不退転の信心によってもたらされるものである。ここに根本がある。言うまでもないことだが、巷で一部の教団にみられる「戒壇の建設主体者が国家でなければ立正安国は実現できない」などという主張は日蓮大聖人の教義ではない。邪義である。