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さる間・成仏は持つにあり(総論を理解するための小論③です。総論を理解するための手掛かりとして下さい)

 「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(御書1136)。この有名な御文は、日蓮大聖人が四条金吾に与えられた別名「此経難持御書」の中に出てくる一節である。「此経難持」(此の経は持ち難し)とは法華経見宝塔品第十一に出てくる経文で、仏の滅後に法華経を受持することがいかに困難かを示した言葉である。
 当時、主君や同僚から怨まれ、社会的に苦境に立たされていた四条金吾は、つい

【御文】
貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承つて・すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして大難雨の如く来り候(御書 同㌻)
〈通解〉
「私は、法華経を持つ者は『現世は安穏にして後には善処に生まれる』と承って、すでに去年から今日まで、この通りに信心をしてきました。ところが、現世安穏ではなく、大難が雨のように降ってきました」

と愚癡をこぼしてしまったようである。このことに対し大聖人が指導された信心の根本姿勢こそ冒頭に紹介した一節である。つまり、

【御文】
いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん、法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし、三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり、(御書 同㌻)
〈通解〉
どちらにしても、よいついでであるからその不審を晴らしましょう。
法華経法師品第十の文に「法華経は信じ難く持ちがたい」と説かれているのは、このことをいうのである。法華経を聞き受ける人は多い。だが、真実に聞き信受して(経文通りに実践する)、どんな大難が来ても、この法華経をつねに心に銘記して忘れない人はまれである。受けること(授戒)はやさしいが、持つこと(持戒)はむずかしい。したがって、成仏は持ちつづけることにある。それゆえ、この法華経を持つ人は必ず難に値うのだと心得て持つべきである。法華経見宝搭品第十一の「法華経を暫くも持つ者は則ち為れ疾く速やかに、最高の仏道を得る」ことは疑いないのである。三世の諸仏の大事である南無妙法蓮華経を念ずることを持つというのである。

との御指南である。その上で大聖人は同抄を

【御文】
此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし(御書 同㌻)
〈通解〉
これより以後は、「此経難持」の四字を少しの間も忘れず案じていきなさい。

との御指導で締めくくられている。
 この御抄から明らかなように、大聖人が一生成仏にとって最も重視されたのは『一生涯退転をしない』ということであられた。つまり、信心の実践を決意する『授戒』は出発点であるが、あくまで一生成仏を決するのは、生涯に渡り信仰を実践する『持戒』にあるということである。末法においては、南無妙法蓮華経の御本尊を受持することがそのまま戒を持つことになるから、私達にとっての持戒とは「生涯御本尊を受持し、自行化他の実践に励むこと」と言えるだろう。
 ここまで成仏に不可欠な信心の姿勢について御書を拝してきたが、ネット上の一部には「『授戒』をする場所である『戒壇』の建設主体者が国家でなければ個人も社会も不幸になる、と日蓮大聖人が仰せになられている。むしろそちらが根本である。」などの論調が垣間見られるが、これは明らかな邪義である。大聖人がそのような御指南をされたことは一度もない。
 邪義の本質について、大聖人は

【御文】
其の外私に経文を作り経文に私の言を加へなんどせる人人是れ多し、然りと雖も愚者は是を真と思うなり(御書882)
〈通解〉
そのほか自分で経文を作り、経文に自分のことばを加えるなどする人々がこれまた多い。しかしながら、愚者はこれらを真実の経文であると思うのである。

と仰せであるから、明確に退け、明快にその誤りを指摘していきたい。
 ともあれ私自身も、改めて「生涯不退転」「生涯実践」を深く決意するものである。