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この社会で生きていくということ

「わたしが見ている世界」と、「相手が見ている世界」は違う。

人は、それぞれの立ち位置からの世界しか見えていなくって、それぞれに主張を述べている。
主張の背景にはもちろん、その主張に至るだけの材料が確かにあるんだろうけれど、どうやら厄介なことに、それは他人から見えづらい性質をもっているらしい。

2020年はコロナの影響もあって、これまで以上に様々な意見に触れることが増えた。

ああ、こんなに違う意見がたくさんあるんだ。
なるほどな、と思う主張もあった。

それと同時に、違うことばで主張しているように見えても、本質的にはほとんど同じ内容に言及しているケースにも気づくようになった。

ほとんど同じものについて話しているはずなのに、それぞれの立ち位置から見た違うことばで描写しあって飛び交う無数の主張。
どうしてこんなに、言っていることが噛み合わないんだろうか。

わたしは”ルールの不統一への無知”が原因だと思っている。

皆、生きている前提が違っているということ。
それをもっと、噛みしめて、味わって、そのことがお腹の底に落ちてモゾモゾしなくなるまで、わたしたちは意識したほうがいいと思う。

わたしたちが生きている社会が、大きな大きな体育館だと仮定してみよう。

だれもが、同じ体育館のなかにいて、みんな違うスポーツのルールに従い、違うスポーツの道具を手にして、違う競技を同時進行でプレイしている。

ある競技同士ではプレイするコートが一部、重複しているかもしれない。
人気のある競技もあれば、難しい競技や比較的誰でも始められる競技もあるかもしれない。

そんなふうに、認識している前提やルールが異なる人が、同じ場所を共有しているのが、この社会だ。
言ってみれば、前提が統一されないまま、見かけ上同じフィールドに立ってコミュニケーションをしている状態であって。

だからこそ面白いものが生まれることもある、このフィールドが私は嫌いじゃない。
でも、体育館を共有していることを忘れて自分の競技だけに熱中していたら、手にしているその道具を振った先にいた、別の競技のプレイヤーを、傷つけてしまう日がきてもおかしくない。

学校に校風や、会社に社風があるように、人が集まる場所にはそれぞれの色がうまれる。
いつもとちがうコミュニティに飛び込んで話してみると、自分にとっては新鮮なことが相手にとっては日常であったり、話題も180度違っていたりと、異なる立ち位置にいる人と考え方をくらべてみると、見えている景色はまるで違う。
 
でも、理想の状態というのは同じ景色が見えるようになることではない。

理想は、自分が選んだ競技に対して最大限のパフォーマンスが出せるように日々練習を重ねていきながら、適度に他のスポーツのルールも理解して、時には観戦や応援をすること。
もちろん、違う競技に転向したくなったらそれもいい。

ルールの違うもの同士が同じ場所を共有している大前提を認識すること、そして隣あってプレイしている違う競技のルールを知ろうとすること、また、自分がどんな競技に心惹かれるかを理解しておくこと。

今、わたしたちが押さえておくべきなのはそんな考え方なのではないかなと思う。

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